思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

性を「みだらな行為」と呼ぶのは、明らかに精神異常。いまの日本は大丈夫?

2016-06-11 | 学芸


マティス
「生きるよろこび」


   性的な交わりを「みだら」と呼ぶのは、明らかに異常な思想に憑りつかれている人のいう言葉ですが、このごろのわが国は、心の病気に深く犯されている人がずいぶんと多いようです。
国家主義者や、上からの命令に従い右へならえ、という封建的ないし軍国主義的な傾向をもつ人は、性を「特殊な領域」にあるものと見ます。自身の精神が歪んでいることの分かりやす特徴が、この性意識です。

   性とは人間の最も人間的な世界で、その人の赤裸々な存在のありようが現れる場です。幼児からの楽しく豊かなスキンシップは、心と身体は一体であることを知らせますが、その心身の触れ合いに乏しい人は、性(心身の交わり)について臆病になり、それが高じて、性的なものを「異常」とさえ思う病気となるのですが、これは、個人としても社会としても不健康そのもので、そこから個人的暴力(体罰なども同じ)が生まれ、社会的には戦争肯定思想と結びつきます。
  生き方ー考え方の根底が狂っているので、不健全で暴力的な言動を導きます。他者を抑圧することで自己の抑圧感から逃れようとするおぞましい悪というほかありません。

   比ゆ的に言えば、本格的に性を楽しみ悦ぶのは、クルマの運転が一定の年齢に達していることが条件なのと同じで、自ずとつくられる制限があります。ただし、性を狭く考えて、身体的触れあいそのものを忌避すると、人間性を元から破壊してしまいます。異常な潔癖症となり、狂うのです。

   何事でも同じですが、あるレベルに達するには、順番があり、幼児は幼児の、こどもはこどもの、思春期は思春期の、という順を踏んで成長します。なによりまず、両親との豊かな触れあい・スキンシップが大切です。触れ合いという意味の広義の性は、心身全体の安定をもたらす最大の基盤です。「性」を狭く見て、ある場面だけを切り取り、そこだけを見るのは偏執です。「みだらな行為」などという言葉を思いつくのは、精神異常者のみです。性とは部分と全体の融合=人間の心身全体による愛です。

  いまの日本は、管理教育をされた型ハマリの人が親になっていますので、ほんとうに心配です。のびのび、自由、楽しく、囚われなく、健康とは、どうも違うようです。
あなたはどうですか?

 

  武田康弘

 
fbコメント
させ とおる
 
させ とおる 淫ら ふしだら という語感が好きなんですよね。
 
武田 康弘
 
武田 康弘 歪んだ人ばかりの国なのかな? 心身も頭も不健全で気もち悪い。
 
稲本 裕紀
 
稲本 裕紀 そうゆう悩み。相談。たくさん持ち込まれます。
おかしな方向に向っている人は、ますます追いつめられて行ってて、それが原因で病気になってる女性も多い。
でも、正反対に、ありのままが当たり前の人も、増えてきていますね。
 
武田 康弘
 
武田 康弘 心身のしなやかさ、態度の自然さ・率直さ、物事への自在な対応、思いやりや優しさ、自由で囚われのない発想、人間的魅力をもたらすのは、健康で自然な性への意識でしょう。

キリスト教の根源的誤謬もここにありますが、日本も明治以降ゆがんだよう。


ソクラテスのフィロソフィを支える中心は、エロースです。プラトンによるソクラテスの対話編「パイドロス」と「饗宴」



コメント
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