日本語のおおやけ=公とは、もともとは、大家(おおやけ)大宅(おおやけ)で、天皇家を指すことばでした。
天皇家が大家=公であり、そのおおやけが臣民全員のおおやけとなる。それが日本という国なのでした。国の体と書いて「国体」とは天皇家がおおやけであるという意味です。
これは、世界の多くの国がそうで、古代世界では、王が中心で、王がイコール国家であり、時間=歴史もまた王と共に変わりました(王が変われば時代も変わります=日本だけはいまだにその古代王による時間=歴史支配の記号である「元号」制度が残ります)。
人類の時間=時代=歴史は、進歩し、次第に一人ひとりの人間存在の対等性という認識が生まれました。その最初が、ブッダのみなが「天上天下唯我独尊」であるという思想であり、ソクラテスのフィロソフィー=誰でもみな思考する力(真善美に憧れる恋心)があり、それはエリート以上にふつうの人々に強くあるという思想であり、時代をくだってイエスのどこの国の人もわけ隔てなく救うという思想でした。
王・皇帝・大王(壬申の乱以降は天皇)がおおやけを代表するという思想は退けられ、人間の存在は対等であり、生まれにより差別されてはならない、という人権思想が次第に世界共通のものとなったのでした。
おおやけ(公)とは、ふつうの人々「皆の」という意味となり、皆の自由な考え・皆に共通する利益・皆の納得を生む行為という意味になりました。だから、敗戦後、日本語では、おおやけ(公)と呼ぶよりも公共という言葉が多く用いられるようになったのです。
生まれにより、赤ちゃんから死ぬまで敬語で遇し、みなの税金で豊かな生活をさせ、そのかわりに、自由な言動を控えさせる皇族と呼ぶ人々を拵(こしら)えるというシステムは、もうとっくに人類的な普遍性を失っているでしょう。
ほんとうの人間の品位とは、誰であれ、個人として互いに対等に相手を尊重し合うところに生まれる、白樺派、民藝館の柳宗悦・兼子さんのように。わたしはそう確信しますが、あなたはどうお思いですか?
武田康弘