知識・履歴・財産の所有は、どれも人間の対等性を壊すパワーですが、お金や政治権力や履歴は、それが大きなパワーをもち、他者を従わせる力となりうることが自覚されています。
ところが、「知の所有」がパワーとなり、他者への抑圧として働くことは、自覚されていません。
多くを知っているということは、他者の上に立ち、他者との対等な関係性を壊す権力になることを自覚せずにいる知の所有者は、自己を他者に優越するものとして無遠慮に知を用い、知らずに他者を傷つけています。
一般に改革派は、金品の所有によるパワーに対して、知の所有で対抗しがちですが、それは、金品の所有による以上に深く他者を傷つけます。目に見えない知のパワーには否応なく従わされてしまうからです。知識や経験の量で人の上に立つ者に対するウットウシサを感じている人は多くいます。
こどもに対する親や教師の存在も、知識や経験量にまさる抑圧者と映ることがしばしばです。
大切なのは、知の所有がパワーとなり、抑圧として働くことを十分に自覚することです。無自覚だとたとえ善意でもひどい抑圧として知が働いてしまいます。「自覚した罪は半ば許されている」とも言いますが、ほんとうの知は、「所有」ではなく、よき「作用」として、自他に資するもの、自他の悦びに寄与するもの、と思います。
他者に優越する知の所有ではなく、他者も自己も活かす知のありようを模索したいもの。楽しさや嬉しさを導く有用な知は、いかなるものか?
武田康弘