思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

「考える」ことの基本の態度について 武田康弘  山脇直司、荒井達夫、青木里佳、

2017-04-16 | 恋知(哲学)

以下は、8年前のBlog&コメントです。核心です。

「考える」ことの基本の態度について 

 
わたしは、ある批評の中で次ように書きました。

「これでは、自分の具体的経験を踏まえて、自分の頭で考え・生み出すという主体的な態度が弱く、書物への接し方が学生レベル(=思想まで本から答えを得ようとする)でしかありません。哲学や思想の本は、ほんらい考える「手段」でしかないのです。賛同したり、批判したり、いろいろ吟味する一手段としてみなければ、何の価値も生じないのです。肝心なのは、自分がどう考え・どういう態度をとり、どう生きるかです。」

この文章に対して、
なにもかもが受動的で、与えられたものをこなすだけの生活を知らずに強いられている現代人の多くにあてはまる指摘で、「なるほど」と思った、
という感想がよせられました。

主体性と言う言葉が死語になり、私性・主観性を掘り進め、豊かな個性を拓くのではなく、「一般化」の海に沈み、「一般人」になることがまるで優れていること・よいことでもあるかのような不幸な錯覚の中で、思想や哲学までも「ハウツー」となり、受験参考書のごとく問題と解法と「正解」がある!?そういう哲学本が出回り、評判をとる(笑)。「考え」を生みだし、多面的で豊なものとし、自分性を発揮しなければ、考えることには面白さがなく、ほんらいの哲学は生じないのですが、
では、哲学(者)と何か?に対して、わたしの考えを青木里佳さんが、彼女なりの言い方で以下のように記しました。大変分かりよい表現だと思いますのでご紹介します。東京大学で哲学を教えている山脇直司さんに対する意見としてです。

「タケセンさんが言いたいのは、
大学で哲学を知識として(歴代の哲学者のことや それぞれの理論等)学ぶ・教えることは可能ですが、「哲学する」というのは知識を並べることではなく、日常生活の経験から生み出す・創造することだ、と思います。
絵を描くことを例にとってみます。
学校では有名な画家や作品・手法を学べます。
もし自分が教師になったら、上記のようなことを生徒に教えることはできます。
ですが、自分の作品のテーマや自分のやり方というのは普段生活している中で自分で探して確立しないといけません。
それには学校で教えられた知識がヒントになるかもしれませんが、それはあくまで参考程度で、自分流の表現法は経験から編み出していくしかないですよね。
時には壁にぶち当たって何も描けないこともある、時には全然違う分野に挑戦してみて新しい発見があるかもしれません。
要するに、悩みながら考え抜きながら自分の作品・表現法を生み出す=創造する作業が哲学するということなのではないでしょうか。」(青木里佳

武田康弘
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以下は、コメントです。

哲学すること (山脇直司)
2009-07-27 01:35:13

青木さんの「哲学すること」は、自分の生活の中で、自分の経験や思考を通して、世界を表現し、作品化していくという営みのことだと思います。このような営みをさらに進めて、個人と社会の関係を深く考え、より良い社会を実現するにはどうしたらよいかを「共に考えていく」ならば、タケセンさんの言う公共哲学の実践になるのではないでしょうか。
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哲学と公共について (荒井達夫)
2009-07-27 22:05:06

「哲学するというのは知識を並べることではなく、日常生活の経験から生み出す・創造すること、悩みながら考え抜きながら自分の作品・表現法を生み出す=創造する作業である」という青木さんの説明は、すばらしいですね。自分の頭で考えて普通の言葉でちゃんと説明すれば、論理的で本質的なすごい話になるという証明です。これ自体が、まさに「哲学する」ことになっていると思います。

また、「哲学する」は、大学教授、官僚、経営者・・・・・という職業や社会的地位と本来無関係であり、むしろそこから意識的に離れる努力をしなければあり得ません。このことの深い自覚が必要だと改めて思いました。

なお、「公共性」について「哲学」として語る場合も、「自分自身の具体的経験を踏まえ、自分自身の頭で考え、自分自身のことばで語り合う」ことが不可欠なわけで、この図書館職員の方のブログもその可能性を感じさせるものです。↓
http://lomax.cocolog-nifty.com/apprentice/2008/04/post_5a99.html

公務に携わる者が自分の仕事の公共性について考えることは、職務遂行の立脚点を明確にするという意味で非常に重要ですから、書物に回答を求めるのではなく、「自分自身の具体的経験を踏まえ、自分自身の頭で考え、自分自身のことばで語り合う」ことができれば、すばらしいと思います。

結局、何事も「私」から始まらなければ「公共」は起こりえませんし、「私」と切り離せば「公共」は展開しません。公共哲学の核心はここにあると言えるのではないでしょうか。
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発想の転換が不可欠 (武田康弘)
2009-07-28 00:01:13

山脇さん
コメントありがとう。
書物を読解すること≒哲学すること、という従来の考え方・見方を根本的に転換しないと、みなが自分の頭で考える(=自分の具体的経験を踏まえて事象の意味を捉える)という作業が始まらないのではないでしょうか。もしも、人生の大半を書物の読解に費やすことが哲学することだとしたら、哲学とは一部の特殊な人の趣味(または仕事)以上にはなれないでしょう。新しい哲学(=ほんらいの恋知)とは、各々が人生を創造する上で、有用性に富み、面白く愉しいものでなければと思いますが、そのためには「ふつう」言葉で考え・語りあう作業が不可欠でしょう。
いまの大学制度の中で哲学を講義すること(哲学学)と、ひろく哲学する営み(生の創造)は次元を異にしますので、われわれが対話するとき、その次元をしっかり分けた上で語り合わないと、対話は生産的にならないはずです。
また、社会と私の関わりについて考えるときもその基本はまったく同じで、ふつうのことばで自分の生の現場を見据えて考え・語り合うほかありません。
お時間あれば、ぜひ、また直接対話しましょう。
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私の現場 (山脇直司)
2009-07-28 11:52:19

丁寧なコメントありがとうございます。基本的にご意見に賛成ですが、あえて次のような問題があることをお伝えしておきましょう。私の現場の授業では、多国籍な雰囲気のゼミが多いので、常に日本を相対化しながら考えることが不可欠で、「日常体験に還元できない異文化・多文化についての知識」なしに、授業は成立しません。また、日本語が通用しない海外での哲学対話も、「日常体験に還元できない学習によって得られた知識」なしには成立しません。その点でタケセンさんの日常的な現場と状況が違うかもしれませんが、この点については、またいつか話し合いましょう。
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外国人相手も同じでは? (荒井達夫)
2009-07-28 18:05:01

直接の体験から得ることのできない知識は、読書や講義から得るしかない。これは当然のですが、重要なことは、そのような知識も、本来の「哲学」においては、あくまでも参考資料に過ぎないということだと思います。

ですから、そのような知識をいくら積み重ねても、「哲学すること」にはなりませんし、それを他人とやり取りしても、単なる情報の交換にしかなりません。これは、外国人が相手でも同じでしょう。

また、外国人相手であれば、尚更「自分自身の具体的経験を踏まえ、自分自身の頭で考え、自分自身のことばで語り合う」ことが求められるのではないでしょうか。

「参考資料はもう十分。問題に対するあなた自身の考えを教えてくれ。それが肝心だ」と。
日本人以上にそれはシビアではないか、と思います。
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具体的経験の哲学 (タケセン=武田康弘)
2009-07-30 10:47:34
山脇さん

ご事情は察します。
ただ、わたしの「具体的経験の哲学」は、どのような抽象度の高い問題や、世界的な問題も、その真偽を確かめ、妥当性を検証するには、生の現場に戻して吟味するほかないという認識論の原理に支えられているのです。
基礎経験を異にする人々との対話を可能にするのも、己の具体的経験をよく見つめ、それを明晰化することによるほかはなく、他者と通じ合うのは、その互いの体験をイマジネーションにより疑似経験することによる、そう私は思いますが、いかがですか。

コメント
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