思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

あまりにも稚拙な、菅官房長官らの発言。「教育勅語」の読み方の基本を講義します。

2017-04-04 | 恋知(哲学)

 明治維新時に伊藤博文らがつくった天皇現人神という「国家カルト教」は、皇室を利用して国民を統合し、富国強兵政策を進めた強力なイデオロギーでしたが、これは、いまの天皇夫妻と皇太子夫妻も忌み嫌う思想で、国体思想とか靖国思想と呼ばれます。

 そのために、その総本山である「靖国神社」(明治2年に維新政府がつくった施設)には、天皇も皇太子も参拝しません。日本の近代化を超スピードで進めた現人神(あらひとがみ)というカルトの手法は、一方では、精神の貧困(日本人に哲学なし)を生んでしまいました。細かな暗記勉強と技術的な知だけが求められ、一人ひとりの独自の精神世界の涵養はなされませんでした。天皇制政府と一体化する集団人となることが求められ、忠の精神に基づく「道徳律」に従うように教育されたのです。その象徴が『教育勅語』です。

 現人神である天皇が、臣民である国民に与えた形をとる道徳律ですが、「忠」という日本精神(上位者への恭順)こそ正しいとする思想を下敷きとして、その上に、個々の戒律が示されていますので、一つひとつの戒律の意味は、「忠」という土台となる精神=思想から解釈されなければなりません。切り離してしまえば、意味を変えてしまいます。

 「滅私奉公」、自分を滅して公=天皇に奉仕するという「忠」の道徳から切り離された個々の戒律は、意味をなさないのです。

 

 以上は、思想的な文章を読む上でのイロハなのですが、高得点が取れるという「知的」に優れていることだけが求められ、自分の頭と心を自分でつくるという「精神的」に優れていること=豊かさ、強さ、深さ、柔軟性、面白さなどが軽視される日本では、この基本を踏まえられない人が多く、とりわけ、高学歴者ほど、その傾向があります。「精神的」であることが「知的」であることより低いという価値転倒は呆れるほどですが、これを読まれているあなたは大丈夫でしょうか? 日本人は思想音痴で、哲学(正しくは「恋知」)がないのは、人間が人間として生きる土台がないのと同じです。いま、一番必要なのは、「自問自答(沈思)と対話によるフィロソフィーの営み」であり、道徳律の強要や暗唱とは逆です。

 

 菅官房長官や各大臣の「教育勅語」に関する発言は、あまりにも稚拙で、精神世界が貧弱で、かつ知的退廃というほかありません。呆れるを通り越し哀しくなります。見事なほどの「思想音痴」です。フィロソフィーの営みはなし。



武田康弘(恋知者)

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