思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

「ぼくは、ぼくだから。」 孫、息子、ソクラテス、ブッダ

2017-09-29 | 教育

 孫のななを見ていると、ななのパパ=息子の弘人の幼いころを思い出します。よく似ているからです。

 弘人は、4歳のとき、おばあちゃん(わたしの母)が、「〇〇の家の子は、◇◇だよ」と話したところ、キッパリと、「ぼくは、ぼくだからね。」と言ったのです。

 孫もまったく同じで、自分の意思が明確で、はっきり話します。

 わたしは、小学5年生のときに夢中で読んでいた『社会のしくみ』という学習図鑑に「ぼくの人生は、ぼくのものだ」という小学生の書いた詩が載っていて、それがお気に入りでしたが、まさか、それから20年後に、幼い自分の息子から「ぼくは、ぼくだからね」を聞くとはーーー。感動でした。

 いまの教育は、それとはアベコベで、集団や組織に従わせるものとなり、ぼくやわたしからの出発は、疎まれます。親や教師の言う通りで、いたずら・反抗・悪さは認められませんので、失敗を恐れずに試行錯誤し、自分の判断力を磨くことができません。

   内的な「私」の精神世界がつくれないのです。その結果、いわゆる指示待ちするだけの「優秀な」(笑)人間が到達点となります。既成秩序に従順ないい人!?で、豊かな人間力とは無縁の存在を生むだけですから、人間も社会も活力を失います。

 ソクラテスの自分の経験に付き自分の頭で考えるというフィロソフィー(恋知)や、ブッダ(釈迦)の皆は唯我独尊として生まれてきたのだから、誰かに従うのではなく自分を灯とせよ、という考えは後景に追いやられ、人間管理主義となり、大人がすべてを仕切り、こどもらしい伸び伸びとした自由は消えてしまいました。

 いま何より求められるのは、ソクラテスやブッダの考えを現実に活かし、個人から出発する、個人が輝く時代と社会です。

 国が先にあるのではなく、一人ひとりの「私」が先にあり、その一人ひとりの意思と行動で国はつくられます。当たり前ですが、すべては、個人のパワー、個人の意思と行為によりつくられます。主体者、主権者が「私」であることは、原理中の原理なのです。

 うん、そう。「ぼくは、ぼくだから」です。

 
 9月15日 拙宅で。稲田由美子さんと。

 武田康弘

 

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