わたしは、幼子が好きです。子どもが好きです。若者が好きです。お年寄りが好きです。女性が好きです。男性が好きです。
国家とか、会社とか、役所とか、学校とか、特定の団体とかは、好きではありません。そういうものは愛しません。
一人ひとりの人間を愛します。
愛がいっぱい。
それは、一番健康・健全な心身のありようです。
愛とは、スキンシップの愛があり、心で想う愛があり、お世話する愛があり、性愛があり、慈しむ愛があり・・・・
愛とは、プラトンによるソクラテスの対話編「饗宴」にあるように、大元はエロースの愛です。エロースの愛を邪(よこしま)なものとみる宗教思想には、普遍性がないのです。元から嘘です。
愛する、愛される、とは、互いの人間存在を肯定し認め合うことですが、十分に愛されずに、型通りに育てられた人には、それが分かりません。
受験主義で点数競争をするように誘導された人、損得勘定ばかりを身に付けられた人、特定の宗教思想を仕込まれた人、身体的な愛を邪なものという考えを仕込まれた人は、柔らかで豊かな人間性をもてません。なんでも型どおり、規則づくめで、束縛された人生を歩む不幸な人になります。
それは、愛がない人生、愛がない生活で、生きるに値しない人生ですので、代わりに勝ち負けを競う生き方になります。金品欲と権力欲と他者に優越したい欲で生きるのです。
そういう不幸な人は、自己の不全感から、人間性の豊かな愛の人生を送っている人を逆に悪者とし、排除しようとします。自分と同じ不幸な人生でないのは怪しからん!というわけです(笑)
みな型どおりになれ、みな束縛された人生をおくれ、みな既成秩序の奴隷となれ、自由と愛はケシカラン。
組織を愛し、国家を愛し、神を愛するというのは、逆立ちした精神です。どこにも実在しないもの=概念を愛するのは、怖ろしいことと思います。愛するのは人間であり、さまざな生命です。いま目の前に存在する命です。豊かな愛を育て、愛を広げ深めることが人間の生きる意味です。おかしな観念の奴隷になって一生を送るのは根源的不幸です。
武田康弘