思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

明治政府がつくった靖国思想(天皇教)と、戦後の天皇制との断絶を知ろう。

2018-12-16 | 社会思想


 吉田松陰の抱いていた思想、尊王攘夷廃仏毀釈 と 軍事による海外拡張思想により明治維新は成立しました。

長州藩の超過激な若者たちは、師の思想に忠実に従って維新を断行し、その後の政治を進めました。

 ただ一つ、「尊王(天皇を敬い)攘夷(外国を打ち払え)」のうち、長州藩のお金を横領してイギリスに渡った伊藤博文らは、そのあまりの文明の差に攘夷は無理だと知って開国するしかないと悟り、「尊王開国」と変更しました。
江戸幕府(徳川慶喜)が開国したことに激しい怒りをもち糾弾していた彼らですが、自分たちの思想の愚かさ=未熟で単純な思想の過ちに英国の地に渡ることでようやく気づいたのでした。

 それ以外は、彼らが崇拝していた松陰の思想に忠実に維新とその後の政治を行ったのでした。

 明治政府は、それまでの神道(多くは中国の道教によっている)の思想を逆転させて、敵と味方を分け、味方(官軍側)だけを祀る施設を長州藩に「招魂社」としてつくっていましたが、維新が成就した後、早くも明治2年に東京にも招魂社をつくり、政府神道=国家神道という新宗教の柱にしました。それを10年後に神社という名称に変えてしまったのでした。それが「靖国神社」で、ほんらいは、神社ではないのです。

 この神社ならざる神社を中心にして、天皇現人神(皇室は神の系譜であり天皇は生きている神である)の思想を、教育により全国民に徹底させました。各小学校の教頭先生は、白手袋をして毎朝「天皇の御真影」(写真をもとに威厳ある姿に描いた絵)をもち、全生徒に敬礼をさせましたが、素手で御真影に触れた先生は退職させられましたし、敬礼の頭の下げ方が足りない先生も退職させられました(現代の「君が代」をちゃんと歌わない先生を処分する東京都などの強権はその名残です)。カルト的思想に基づく強権には寒気がしますね。
 

 その思想の行く着いた先が、満州侵略(昭和天皇が承認)にはじまり太平洋戦争にいたる14年間の戦争「ポツダム宣言」受諾による無条件降伏=敗戦でした。昭和天皇は、わたしは神ではないという「人間宣言」を出し、主権者を天皇から国民に変えた(天皇主権は絶対に認めないという占領軍の意思により)新憲法が誕生したのでした。まさにコペルニクス的転回でした。ただし、最高責任者の天皇の裕仁が自害どころか退位さえしなかっ為に、この転回が曖昧にされ、混沌がつくられてしまったのです。

 いまの天皇の明仁さんは、儀礼を司り政治的力は持たない象徴天皇制こそが、ほんらいの天皇の姿だと認識し、戦争への反省をし謝罪を重ねてきました。国民主権の新憲法こそほんとうの憲法だと考え、それに従って「天皇の仕事」をこなしてきたのです。だから、日本会議など戦前思想や戦前回帰を画策する安倍政権には、許される限りで抵抗してきたわけです。

 こういう流れを逆行させ、天皇を中心にした国家(靖国神社の思想に基づく天皇崇拝)※(注)にしたいという願いをもつのが、日本会議というウヨク団体に所属する安倍首相以下大多数の閣僚と自民党議員たちです。かれらのもつ思想は、吉田松陰の思想=水戸学であり国学ですが、これは、近代民主制(政)とは二律背反であり、新憲法(いまの日本国憲法)下では到底認められない思想です。このことを皆が明瞭に意識しないととても危険です。


(注)日本会議というウヨク連合≒いまの自民党議員の多数派は、天皇という位にある一人の人間としての天皇の想いや考えとは無関係に、明治維新政府がつくった『天皇制というシステム内の天皇崇拝ないし敬愛』(=国体思想=靖国思想=国家神道)という宗教で国民を一つにするという日本型全体主義の思想をもちます。
 そこでは個人という言葉=概念を否定し、人類という言葉は抽象的で意味がないとし、各人は、日本国籍をもつ国民の中の一人なのだという思想を浸透させ、官僚政府がコントロール可能な人間を教育でつくることを目がけます。人間とか個人ではなく、ニッポン人であることに誘導され、強要されます。従わない者は、無視されるかデマや人格否定の攻撃に合います。


武田康弘



 



 

 

 

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