思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

新しい時代が来た!とのことですが、今日5月1日に何かあったのでしょうか? 世界一不思議な国では「令和」の連呼が狂気のレベルにー令和令和令和100万回?

2019-05-01 | 学芸

北朝鮮のテレビは、ずいぶん控えめと思いました(笑)。

今日の日本のテレビを見れば、超がたくさんつく「令和」の大合唱で口あんぐり、これほど同一の単語が連呼されたのは、間違いなく世界一でしょう。

ヒステリーの極北で、アナウンサーが淡々とそれをやるのですから、冷たいヒステリーです。熱いヒステリーならば燃え尽きますが、冷たいヒステリーは長続きしますので実に恐ろしいです。

それが仰々しい儀式を粛々と進める日本をつくります。思想内容は乏しいのですが、形式がすごいので、嫌だなと思う人も何も言えません。

日本だけ5月1日から新しい時代になったというのですが、いったい何がどうしたというのでしょうか?(笑)

政府とマスコミが持てる力をフル動員して、国民全体の占脳=染脳にあたる、有名人は総動員で、天皇天皇 令和令和。

なんとNHKニュースでは、令和初のヒット、令和初の二塁打、令和初の三塁打、令和初のホームラン、令和初の盗塁・・・・・一覧表をつくり、まだ令和初が出ていないのは〇〇と言っていました。

さすがに温泉場でそれを見ていた人たちは呆れ顔で、白けていましたが、こんな国世界のどこにもないでしょう。日本は世界に例のない集団同調主義の国と言われますが、たしかに怖くなるほどの同調への誘導と圧力です。



武田康弘

 

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新しい時代ー新しい国とは、《共和制の日本》です。【元号天皇制】は、民主政治と背反してしまいます。皇族も含めてみなの幸せをつくりません。

2019-05-01 | 学芸

 一人の人間の老いや死により、時代が変わる国が近代市民社会=主権在民の民主制国家とはとても言えないという常識が通らないのがわが国です。

 

 国民全体が、人為的に「新しい時代」?に投げ込まれ、逃げられません。元号が変わるというのは、別の時代になった事という国家宗教=天皇主義のイデオロギーに巻き込まれてしまいます。

 

 その天皇と呼ぶ人がどのような人間かの問題ではありません。どれほどよい人であろうと、特定の一人の人間の在位期間が終わると時代が変わるというのは、あまりにも不合理で、とても近代社会とは言えないのです。

 

 古代の王は、空間とともに時間も所有し、王が死ねば時代も変わりましたが、その思想が世界で唯一残っているのが日本という国です。

 

 元号で時代を変えられるというのがどれほど恐ろしい思想かを知らずに、唯々諾々とそれに従うのでは、その人は、国の主権者ではなく、国の中の一人になってしまいます。主権者であるわたしやあなたがお金と考えを出しあって国をつくるという民主制社会の原理とはアベコベになります。

 

 一人の人間、たとえどれほどよい人であったとしても、天皇とよぶ人間の老いや死により時代が変わるという思想は、大元から民主主義とは背反します。もう分かりましょう、わが日本人よ。


 皇族とよばれる人も含めて、みなが幸せになるには、共和制へのスムースな移行が必要です。 「私と共和制」-楽しい公共社会を生むためにーをぜひお読みください。人間に生まれによる差別はないのです。



武田康弘

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ゆく時代?来る時代? 元号を変えて、時代が変わる??ビックリの日本という国。

2019-05-01 | 社会批評

 NHKでは、「ゆく時代、来る時代」というテレビ番組で、芸能人やら有名人がみなはしゃいでいました。

 なんともスサマジイ宗教国家だな~~~(笑笑) 天皇教一色ですが、この宗教には中身=内容がありませんので、その時その場の価値観で動きます。

 だから、戦争推進の恐ろしいイデオロギーにもなり、平和主義のシンボルにもなります。世俗の都合や価値に合わせて七変化するのです。

 キリスト教のような一神教は、経典を持ち、世俗の価値を超える思想の原理をもちますので、自己といまある社会の価値意識を相対化することができますが、
 天皇教の場合は、中身がないのでその時々の政権を聖化するアイテムとして作用してしまい、世俗の価値を相対化するのとは逆に、絶対化して強固にする役割をもちます。そのために政治権力者にはとても都合のよいシステムで、長いこと重宝されてきました。

 日本人の多くは、学校の勉強とその延長=「事実学の積み上げとパターン知の習得と丸暗記と情報取得」だけを競い(東大病・東大教)、自分の経験をもとに自分の頭で考えるという人間的な思考力・総合的判断力の鍛錬をしていません。そうなので、中身がなく世俗の価値を追認する天皇教にはとても馴染むのです。自己の実存への問いは封印したまま(無思考)、集団同調で生きることになります。

 技術知とパターン知と情報だけでがあり、「主観性の知としてのフィロソフィー」=実存論はどこにもありません。人間が人間になれないのですが、それをマイナス価値とは自覚しません。

 平成時代とか令和時代というような「時代」などどこにもないのに、まるでそういう時代があるかのようにテレビも新聞も大合唱です。見事なまでの日本国家宗教ですが、怪しむ人は極小です。


武田康弘(恋知者=フィロソファー)

 

 

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