思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

皇族が他者の住居(江戸城)に住み続けているのは、不道徳ではないですか? 京都御所に戻す(戻る)べきでしょう。

2019-08-24 | 学芸

 江戸城が無血開城され、江戸の町は戦火から免れましたが、もしも長州と薩摩の軍隊が江戸に突入していたならば、会津の惨劇(長州軍により金目のものは根こそぎ奪われ、若い女性はみな犯された)の再現で、オゾマシイ結果となったのは間違いありません。そうはさせじと、勝海舟は、和戦両方を考え、いざとなれば、薩長軍を江戸に入れた後、一斉に火を放ち(なんと火消したちにその用意をさせていた!)庶民たちを河川に集めた船で避難させる用意までしていました。

 しかし、現実は、江戸幕府から大統領制に移行する案もありましたが、それは消え、天皇現人神による人心支配となったのでした。

 けれども、この天皇なるものは、大化の改新から続いていたのではなく、村上天皇を最後に天皇という呼称は使われなくなり(実権を失い京都周辺のローカル王となった為)平安時代初期から江戸時代後期まで800年間は、日本に天皇と呼ばれる人は存在していませんでした。それが、江戸後期に光格が権力欲により大袈裟な行事を次々と生みだして、再び天皇(光格天皇)を名のるようになったのです(※詳しくは、学習院大学と大学院で教える遠藤美都男著「名前でよむ天皇の歴史」(朝日新書)をご覧下さい)。

 明治維新政府は、この天皇家を用い、天皇現人神という国家宗教(国家神道=靖国思想)をつくることで、全日本人を天皇の前に拝跪させることに成功しました。「一世一元」とし、天皇と元号を結び付けて、時間=時代まで管理することに成功したのです(今に至るも続いている)。一世一元とは、それまでの日本の歴史には一度もなかった制度です。

 このとき、伊藤博文や山県有朋らは、まだ満で15才の睦人(むつひと)を京都御所から連れてきて、江戸城に住まわせ、現人神として教育していったのでしたが、この天皇教による政治体制は、「ポツダム宣言」受諾=無条件降伏によりおわり、主権者を天皇から国民に180度変えて、新憲法がつくられたわけです。

 

 そこで大問題なのは、戦後の新憲法下でも、江戸や江戸城にはまったく縁のない天皇家を江戸城という他人の住居に住まわせていることです。睦人は当時の権力者に連れて来られたのですが、今の皇族たちは、そうではありません。それが、いまなお他者の家に住み続けるのでは、反道徳の誹りを免れません。自分たちの家である京都御所に戻す(戻る)ことは必須です。

 大切なことですので、皇族を含めてみなが、きちんと真面目に考えなければならないことです。


 また、憲法14条には、すべて国民は、「門地(生まれ・家柄)により差別されない」と明記されているのですから、皇族の特権は縮小していくほかないのです。皇族の人権回復とセットである特権の縮小は避けて通れません。


武田康弘



 

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