思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

天皇色に染められる日本人! すばらしい威力の「天皇教=元号教」に脱帽です。精神の自由を担保し豊かに生きる「白樺同人社」をつくりたい。

2019-10-01 | 社会思想

 生まれた時から、わたしは、平成〇〇年生まれ、昭和〇〇年生まれ。
わたしたち日本人は、「天皇」と呼ばれる人とくっついた元号名の時代(昭和時代、平成時代、令和時代)が存在すると、誰でも自然に思い込みます。



 天皇が生きた神とされ、「神聖にして侵すべからず」(「大日本帝国憲法」第3条)で、皇軍のトップ・シンボルであった1926年~1945年までは昭和時代で、
1945年、無条件降伏(「神の国」なのに全面敗戦)して、天皇が「わたしは神ではありません」と人間宣言をして、憲法が全面改正されて、天皇主権から国民主権に180度変わっても同じく昭和時代といい、今度は平和の象徴になりました。


 人々は、昭和時代はこうだった、ああだったと、さもさもの顔をして語る。時間が実体化されて、昭和時代というものが存在する!?!?(驚)と思います。

 代替わりとなると、新しい時代が来た!と超がいくつもつく大宣伝がなされ、右派も左派もみなお祝いで、同調しないとは日本人とはみなされず、テレビは絶対に出してもらえません。これほどの思想統制があるのは、驚くべきことです。マスコミには異論も反論も載りません。

 「わたしは無宗教」、というのが多くの日本人ですが、それはまるで違い、立派な天皇教徒です。天皇教の信者でなければ、時間が何十年かでブツ切れになる元号など使うはずがありません。いつのことか、何年前のことかも分からなくなる元号制度、古代国家の王と共に時代を変える元号制度、世界で一か国だけ残った不合理極まる元号を平気で使えるはずがありません。

 知らぬ前に心身の奥まで「天皇教」に染められている証左です。これほどに染脳・占脳がうまくいくのは、天皇教には中身・内容がなく、形式・儀式だけがあるからです。仰々しい儀式・さもさもの儀式を見せられる。その立派な儀式とはあべこべに思想の中身・内容は示されないので、人々は安心して従うのです。形式だけだから心配ない、というわけです。実は、象徴動物である人間は、ある特定の形式を受け入れることで、生き方の基本形を決められてしまいます。日本人が恐ろしいほどに肩書に弱く、学校名がものをいうのも、有名か無名かでよしあしを決めるのも、形式が重要と思い込むのも、仰々しい儀式に無批判的に従ってしまうところに深因があるといえます。

 元号を連呼し、役所の書類は元号で書かせ、一番切実な銀行の書類も元号。元号を徹底させれば、知らぬ間に「天皇教」=全体一致の形式主義の精神に誘導できるのですから、明治維新の岩倉具視(武家政治を終わらせて公家政治を復活させる)や伊藤博文(天皇教をつくり長州藩による全国支配)による「一世一元」という日本の歴史になかった新制度の創設は、敗戦後もなお威力を保ち、現代の日本人の深層意識まで侵し続けています。

 実に見事な!明治。その呪縛力の強さは、世界一です。右派も左派も逆らえないのですから、脱帽するほかありません!(笑)


 ところで、わたしは1952年生まれですが、あなたは何年生まれですか?


追記

 役所から来る文書は、すべて元号で、最近では、西暦(エジプトの太陽暦にはじまる実際上の世界暦)に直すこともできないような体裁(書き込むスペースがない)になっています。まさに「一世一元」という明治維新がつくった元号制度は、天皇教の象徴です。キリスト教のシンボルは十字架ですが、天皇教のシンボルは元号です。日本にいると、その「役所権力=国体思想の政府権力」が強要する天皇教からいまのところ抜けられませんので、元号を使わず=天皇教から離れ、皇族の人々の人権の回復も目がける【共和制の日本】(国事行為から天皇を解放し、文化的行為・国際親善のみを仕事とし、国事行為は、政治権力を持たない大統領が行う。政治権力は首相がもつが、大統領は、首相の国会解散への拒否権をもつ)への移行をよしと考える人は、とても肩身の狭い思いをさせられてしまいます。無形の人権侵害を受けるのでとても不愉快。

 そういった事態からの個々人が解放されるためには、かつて、キリスト教と教会からの有形・無形の圧力を受けて自由が抑圧された欧州で、自由を守るためにモーツァルトやベートーヴェンが所属したフリーメーソンのような結社が必要と思います。秘密結社ではなく、公開で、みなに開放された結社がよいと思います。名称は、「白樺同人社」としましょうか。知恵、労力、少しのお金を出し合って、友愛の結社ができれば素敵です。すでに本部=「白樺教育館」はあるのですから現実的な話と思います。多くの自由な精神を守るために、日本主義=天皇教の呪縛から逃れて、真実を探求し、のびのびと学び、心豊かで自由な人生をおくるための結社って、素敵で有益だと思いますが、どうでしょうか?

その思想は、主義や宗教ではなく、各自の実存としての生を花咲かせるものですが、すでに「人類思想の三分類と恋知」英訳もあります)「私と共和制ー楽しい公共社会を生むために」に記していますので、ぜひ見てください。お時間があれば、精読=音読してみてください。

※小学生のときに暗記した憲法条項ですが、
「第二十一条 集会結社及び言論、出版その他一切の現の自由は、これを保障する。」の結社の自由の意味がようやく分かりました(笑)




武田康弘(フィロソファー=恋知者)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

カラヤン3回目のベートーヴェン交響曲全集についてのAmazonの商品説明にみる文明批評。明瞭な解説。

2019-10-01 | 芸術

 1970年代に録音されたカラヤン3回目のベートーヴェン交響曲全集についてのAmazonの商品説明は、興味深いものと思いました。以下に一部を抜粋します。

   これは快楽主義的なベートーヴェンである。もっとも、これらの演奏を聴いていると、ヘルベルト・フォン・カラヤンはセックスを、体つき感情を混同していないかどうか、ときに疑わしく思われる。 少なくとも彼は、心理学や実体よりも、音の豊かさやテクスチュアの重みにより多く関心があるように見える。彼の解釈には大いなる感情も、葛藤も、精神的解放感もないけれども、大いなる美しさと気分を浮き立たせるものがあることは確かである。

   これらのレコーディングを行ったときピークを迎えていたベルリン・フィルハーモニー・オーケストラは、まさに驚きである。その演奏が熱情的であったり、あるいは自発的であったりすることはほとんどないとはいえ、そのサウンドは豪奢で、生気に富み、気分を浮き立たせるほど豊かである。

 
ーーーーーーーーーー

 

 わたしは、ベートーヴェンの魂の声を聴くのがよろこびで、精神と身体の双方の内から湧き上がる情熱に震え、何者にも負けない不屈の精神ー思想の駿立に深く感動する。全身に鳥肌が立ってしまう。

 だから、カラヤンの演奏を聞くと、なんとも苛立たしくなる。

 

 

葛藤のないベートーヴェン。

愛と感情のないベートーヴェン。
精神的解放感のないベートーヴェン。

情熱的、自発的でないベートーヴェン。

そして、

 

快楽主義のベートーヴェン。
愛と切り離された
セックスと魅惑的な身体のベートーヴェン。
磨かれた美しさと気分を高揚させるベートーヴェン。

豪奢で、華やかな生気に富み、気分を浮き立たせるベートーヴェン。


 

でも、多くの人に受けるのは、カラヤンの演奏だろう。

日本でも昔から大変な人気で、サントリーホールの前庭も「カラヤン広場」と銘打たれている。

 

いまもなお、現代文明は、カラヤンの目がけた方向に進んでいるようだ。外的価値、外的美と外的善。

 

わたしは、それとは異なり、ベートーヴェンの魂と思想の目がけた方向に進みたい。それは、古代ギリシャの精神とも一致する。


武田康弘

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする