思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

一番好きな曲=ベートーヴェン「ディアベッリの主題による変奏曲」の三つの異なる名演 ポリーニ。ルイス。リフシッツ。

2019-10-21 | 芸術

 わたしの一番好きなピアノ曲は、ベートーヴェンの「ディアベッリの主題による変奏曲」です。
50分を超える曲ですが、これを聴いていると、耳も身体も心も頭も大満足で、嬉しさが溢れます。

 ディアベリに開眼したのは、ちょうど19年前の2000年秋です。
 それまでの体験、大昔(笑)のLP、バックハウスのものは少しも面白くなく、リヒテルのライブ演奏(CD)もピンと来なくて、ディアベッリってこんなもの?と思っていましたが、
それが2000年の秋、ポリーニの新譜を聴いて、ハマったのです。(クリック)いや~~なんて面白いのだろう!

 その後で、ルイスの豪快で動的でかつ濃やかな名演をCDを聴き、ますます好きになり、ついに今月1日、銀座王子ホールで超絶のライブを聴き、もう言葉もない。CDの名演をより濃やかに、かつスケールを大きくし、強靭にした演奏で、圧倒的なピアニズムに呆然! これは、ルイスが小学生の頃、学校から借りてきたLP=ベートーヴェンの交響曲4番の出だしの部分をお母さんに聞かせ、「どお、いいでしょ。」と言い、お母さんの返事が通り一遍なので、「違うよ、カッコいいんだってば!」と言った、そのエピソードを想い起こさせる演奏です。いつまでも少年の純粋さをもつルイスの外連味(けれんみ)のないピアノは、ベートーヴェンの強靭な市民精神そのものです。エネルギーが充填され、元気と勇気が湧いてくる!

 それに対して、昨年春、所沢ミューズでバッハのパルティータ全曲(なんと一回で6曲全部)を聴いて仰天した天才・コンスタンチン・リフシッツが、一昨年の日本公演で弾いたディアベッリは、まったく異なる演奏で、ベートーヴェンの精神の宇宙を現わす名演。深い奥行きで、豊かな感情が立体化した余裕の演奏で、まさに天才のなせる業。

 

 3つのディアベッリは、三者三様で、全然似たところがない。みなにお礼を言おう。静的で構造がよく分かるのはポリーニ、深々とした豊かな精神性はリフシッツ、強靭でパワフルなのはルイスでドキドキする。

 来年は、ベートーヴェンの生誕250年!!(祝祝祝) ベートーヴェンはほんとに素晴らしい。評する言葉もない。「わたしの音楽の意味を見抜き得た者は、どのような人生の悲惨からも免れるだろう」「わたしの音楽の啓示は、あらゆる哲学を上回る」ーーこの自負がたまらない~~~(笑・ホントウ)。いや、音楽そのものが圧倒的に見事なのですが(念のため)。

 

 今月1日、ポール・ルイスの超絶のディアベッリの演奏会の後で、ルイスと談笑するわたし(銀座王子ホールで)

 

  ポリーニ                ルイス                  リフシッツ




 

 

 

 

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日本主義というイデオロギーは、・・・・・

2019-10-21 | 恋知(哲学)

日本主義というイデオロギーは、序列と形の二文字ですべてが収まる文化で、それが集団同調主義を生みます。

その象徴が、天皇教という中身がない儀式宗教です。仰々しい儀式と特別な言葉で人を黙らせます。それが生む精神風土の中でまどろむのが日本人ですので、

日本人に哲学≒恋知なし(実存者としての精神の自立がない)と言われます。


以下は、「恋知」第一章より。

    明治政府がつくった天皇教=靖国思想が生んだ日本人の生き方は、形と序列の二文字で象徴的にあらわされますが、これでは、一人ひとりに幸福が来ることはないでしょう。序列意識に支配された「型ハマり」の人生では、どう転んでも不幸です。お金や地位があってもなくても同じです。それらがあれば楽ではありますが、ただ楽であるだけです。

 

継承の儀
昭和天皇死去の3時間半後に行われた 
剣璽等継承(けんじとうけいしょう)の儀。
――草薙(くさなぎ)の剣と八坂の
勾玉(まがたま) と、天皇の印と国の印を
受け継ぐ儀式

 

   先に触れましたように、明治政府は、皇室祭祀を最高位に置き、これと神社神道を直結させて「国家神道」という新宗教(天皇教)をつくりましたが、それに伴い明治4年(1871年)に全国の神社の等級を定め、その後の地方制度の改変により『大日本帝国憲法』発布までに次のように確定しました。官幣社(大、中、小)、国弊社(大、中、小)、府県社、郷社、村社、無格社の6段階で、国民が新たな神社をつくることを禁じました。現人神(あらひとがみ)である天皇が大神主も務める国家神道は、この序列化によって完成しましたが、仰々しい祭祀が中心、形ばかりで中身のない宗教は、わたしたち日本人の意識をヒドク歪めてしまいました。中身・内容以前に形がある、「正しさ」はあらかじめ決まっているという逆立ちした観念を植え付けたわけです。

 

立法と調査別冊
武田論文を含み各界40名の「キャリア
システム」についての意見書を載せた
『立法と調査』の表紙写真
2008年11月発行

 

  それは、天皇の官吏=官僚による日本支配を正当化する想念ともなり、東大法学部卒の官僚であるという形による支配・正しさの独占・上からの絶対的規範は、今日もなお根強く残り、わたしたち日本人の知や学問のありようを規定しています(これについては、参議院調査室から依頼された論文『キャリアシステムを支える歪んだ想念』に書きました)。学校(小学校―大学)における固く融通の効かない知の教育は、呆れ返るほどですが、日々の具体的な経験につく自然な知(それがほんらいの知性)とは異なる型ハマりの学習・解法のパターン化は、今日さらにヒドクなっています。

 

   さらに、わたしたちが生きる上で一番切実な男女関係、結婚、家庭のありようについても明治政府は、帝国憲法発布と前後して、古くからの日本の伝統であった自由恋愛を禁止し、強力に「見合い結婚」を勧めます。天皇教の下で富国強兵を進めるために男女の自然な結びつきを嫌ったのです。それが家父長的家庭観とセットになり、女性差別を当然のこととしました。

 

   以上、見てきましたように、人間のほんらい性・自然性から逸脱した人為的な政治と思想を象徴するのが天皇教=靖国思想です。一人ひとりの「私」から発する豊かさとは無縁の「型ハマリ」の観念に基づく人生に誘導する空気は、このようにして生みだされました。天皇や皇室という制度が醸し出す空気は、生き生きとした「私」の意識を鈍痲させ、知らずに惰性態へと導きます。様式によって意識を支配します。のびのびした自由な心が失われ、身体がこわばるのです。感情の発露が抑えられ、顔の表情が貧しくなります。

 

文学館外観
白樺文学館・2001年武田撮影

 

   日本の入学式や卒業式が子どものもつ可能性―未来を感じさせる楽しいものではなく、重く堅苦しい儀式なのは、天皇制国家の象徴のようです。本来こどもたちのための式なのに、主役は「日の丸」であるかのような壇上、明治天皇に捧げられた皇室の歌=「君が代」斉唱の徹底に狂気のごとくに取り組む役人や政治家の姿を見ると、なんとも呆れるほどの国家宗教の国だな、と思います。わたしは哲学徒で仏教徒(浄土真宗大谷派)なので、長年とても違和を感じてきました。日本の人間開眼、白樺派が先駆の〈人間性の肯定―ルネサンス〉が必要です(わたしが全コンセプトを創った『白樺文学館』創成記をご参照下さい)。  醸される「空気」によって、生命の力と輝き・心身の溌剌さ・囚われのない自由な心が抑圧されたままに生きるのでは、根源的不幸としかいえません。

 

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武田康弘

 

 

 

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