思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

フィロソフィ-(日本では西周により「哲学」と訳されるが、誤訳で、直訳すれば「恋知」)の原理とは何か?

2020-01-04 | 恋知(哲学)

 
(クリックで拡大・染谷裕太君撮影)

 みなの思うこと・考えることをよく聞いて、それに合わせて自分の考えを決める。
 みなの行動に合わせて、自分も行動する。
 自分の知る人、自分の周りの人、テレビに出る批評家の話を聴き、それらとあまり違わないように考え、はみ出たことは言わず、行わない。
 そういう人を良識のある人、常識を弁えた人と見る。

 多くの人、とりわけ日本人は、そのようです。

 でもフィロソフィー(恋知)の態度は、ちょっと、否、かなり違います。

 自分の日々見聞きする事象ー体験を基に、頭と五感をフルに用いてよく考察し、深く腑に落ちる見方ー考え方を見い出そうとします。

 私が感じ、想い、考えることにつき、体験と思考を往還し、自問自答と他者との対話を繰り返して、自分の内部に湧く深い納得と強い確信がえられる見方・考え方につくのです。それがフィロソフィー(恋知)の核心中の核心、原理中の原理です。

 今の日本では、それを踏み外した「哲学もどき」ばかりとなり(「他者承認」が第一!と主張する人がゾロゾロ)、フィロソフィーが哲学書読みと同列になり、あるいは、情報知のようになっています。ほんとうに困ったことです。 自分の頭では考えず、周囲や所属団体の承認を求めることを目がけ、「私」という主体性にはつきません。それでは、内的には生きる意味を産みだせません。他者と張り合うだけの人生へと堕ちて「他者承認」を求めてうろうろする。これでは人生の失敗です。

 

 ハチやアリなど昆虫類の属性である集団主義、犬の属性の上下関係の絶対化、蛇やワニなど爬虫類の属性の死ぬまで戦う戦闘脳と近似の属性で生きるのは、人間性の豊かさ=愛情と理性を合わせ持つ生とはあまりにかけ離れています。根源的な不幸・不善です。

 点数競争の受験主義の勉学とフィロソフィー(恋知)の営みとは、二律背反です。自分の経験を足場にして自分の頭で考え知る「ほんとうの学び」を身に付けないと、地頭(頭の芯)が強く健康にはなれず、損です。徳も得も得られません。

 正しさとは、皆がそう思うからという同調にあるのではなく、私の主観にもたらされる明晰さの程度納得の深さ確信の強さのことです。これは人間の知の原理中の原理です

 日本の同調主義を認識論でいう「真理の共同主観説」と次元分けせずにごっちゃにすれば、個人の精神の自立がまるで悪いことのように意識されてしまいます。共同主観というのは、各自の主観に「内在」としてもたらされる「明晰さの程度、納得の深さ、確信の強さ」を究極の拠り所にしています。それがない共同主観とは、底の浅く愚かな集団同調主義=天皇教でしかなく、大元から誤まりです。

 このことを知らなければ、すべてが思考と営みは砂上の楼閣(さじょうのろうかく)となり、徒花(あだばな)となります。


 武田康弘 

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