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武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

世界中の極右を引き寄せるウクライナ義勇軍は新たなファシズムの温床か

2022-03-14 | 社会批評

ニューズウイーク日本版 

世界中の極右を引き寄せるウクライナ義勇軍は新たなファシズムの温床か

2022年03月14日(月)10時54分

<ロシアの侵略と戦うウクライナは、ネオナチに実戦経験とその神話化の機会を提供する。それはかつてナチスの台頭を招いた政治の「残忍化」につながりかねない>

ロシアによるウクライナ侵攻が続いている。私は前回の記事で、ウクライナにはネオナチ勢力が存在するのは事実だが、それを根拠としたプーチンの開戦理由は正当化できないことを論じた。その結論は現在でも変わらないが、開戦後にウクライナでネオナチの勢いが増していることについては注意を払うべきかもしれない。

『ニューズウィーク米国版』は3月2日の記事で、ロシアの侵略によって「アゾフ大隊」のようなウクライナのネオナチ準軍事団体のプレゼンスが高まっており、またアメリカなどの極右勢力が現地に集結していることを報告している。同記事では、政治アナリストのジョナサン・ブランソンによる「現時点でウクライナに必要なのは兵力であり『今は』その中身について問うべきではない」という意見を紹介し、また極右の中にはウクライナではなくロシアを支持する者もいることに言及しつつも、全体的にはウクライナで極右が強化されていることに対する警戒する内容となっている。

ドイツの日刊紙『ディー・ターゲスツァイトゥング』も、3月3日の記事でウクライナの戦争にドイツの極右が参加しているという問題を報じている。ドイツ政府はこうした戦争参加を認めていないが、力ずくで参加を食い止めることまではできない。左翼党の議員マルティナ・レンナーは、こうしたナオナチの活動家がウクライナで戦闘経験を積むことはドイツ政治に悪い影響を与えるのではないか、と述べている。

ネオナチ「戦闘訓練」の場

レンナー議員のこの危惧は理解できる。というのは100年前のドイツでもやはり、ヴァイマル共和国に暴力的な政治文化を形成し、ヒトラーの台頭を招いたのは、第一次大戦やそれに続くバルト地方からの撤退戦などに参加し、凄惨な暴力を体験してきた兵士たちだったといわれているからだ。

第一次大戦後のドイツでは、前線経験がある若者を主体とする義勇軍組織(フライコール)が結成され、縮小した正規軍に代わって左翼活動家や労働者たちの弾圧に関わった。彼らの多くは反共であったが、一方で反共和国でもあった。ナチ党の有力者にも義勇軍経験者が多い。ナチスの準軍事組織である突撃隊の実質的指揮官であったエルンスト・レームもその一人だ。

昨年末、筑摩書房より文庫化されたジョージ・L・モッセの『英霊』は、ヴァイマル共和国の不安定化はそれ以前の戦争経験に基づくという政治の「残忍化」テーゼを打ち出し一躍注目を浴びた。原著は1990年、つまり東西ドイツ統一の年に発表されている。モッセの「残忍化」テーゼはその後、多くの批判的検討や修正が行われつつも、概ね広く受け入れられている。

モッセによれば、兵士や義勇兵たちによって形成された「戦争体験の神話」は政敵を非人間化し、その殲滅を目指す思考を受け入れやすくする。そのことによってファシズムの残忍さは、残忍であるがゆえに魅力的なものとなるのだ。

ドイツは既に、このウクライナ戦争をきっかけとして防衛予算の歴史的な増額を表明するなど「平和国家」から「強い国家」への道に転換しようとしている。ここにウクライナで戦っている右翼が持ち込む「戦争体験の神話」が加わるとどうなるか。

ドイツは今のところ他の欧州勢力に比べて極右政党のプレゼンスは比較的小さいが、今後は政権選択に影響を与えるようになるかもしれない。2017年に極右政党のAfD(ドイツのための選択肢)が初めて国会に議席を獲得したとき、当時のメルケル政権は連立パートナー選びに難航し、再選挙の寸前までいった。次の選挙でこのような危機が再び訪れるかもしれないし、既成政党も全体的に右傾化していくかもしれない。

もちろん、だからといってウクライナを非ナチ化するための戦争というロシアの理屈に一分の正当性も出てくるわけではない。むしろロシアの侵略のせいで右翼がウクライナに集結することになっているのだ。ウクライナに集結する右翼への危惧は、ロシアの侵略を相対化するものになってはならない。

残忍化のメディア

『英霊』におけるモッセの議論は、我々がメディアを通して戦争を受容するときの戒めにもなるかもしれない。メディアを通して我々が「残忍化」するというと、我々は「××人を殺せ」のような好戦的メッセージの危険性をまず思い浮かべる。しかしモッセが取り上げているのはそれだけではない。戦没者追悼などを通した「英雄化」や、小説やゲーム、絵葉書、子供の玩具などを通した戦争表象の「陳腐化」も彼は議論の対象にしている。

我々が日々接しているメディアでも、ウクライナ戦争の「英雄化」や「陳腐化」が行われている。たとえばSNSで拡散されるような英雄的に戦うウクライナ兵士のエピソードや、ロシア軍に屈しないウクライナ市民たち、不屈の指導者としてのゼレンスキー表象、ウクライナを応援するための国旗色が施された様々なグッズ、などはその例といえるだろう。

戦争が始まってから二週間、SNSを含むメディアの進化によって、虚実入り混じった情報が急速なスピードで世界を飛び交い、戦争の「神話化」がリアルタイムで進んでいる。我々は少しずつ戦争に慣れ始め、戦時下の言語で語るようになっている。ウクライナ大使館の要請に応じて、日本人でも義勇兵としてウクライナの戦争に参加を希望する者が出現しているという。こうした傾向がモッセの言う通り政治の「残忍化」へとつながる可能性を、今から認識しておく必要があるのではないか。

戦争の帰趨は分からない。しかし確実に言えるのは世界的に政治の「残忍化」が進むことは避けられないということだ。だが、それは必ずしも破局に繋がるわけではない。『英霊』文庫版の解説を書いている今井宏昌は、『暴力の経験史:第一次世界大戦後ドイツの義勇軍経験1918~1923』(法律文化社、2016年)で、戦争経験の解釈のされ方は多様であり、それは必ず戦争を志向するのではなく、解釈の在り方によっては平和を志向する道もあることを示した。

ウクライナの戦争については、ロシアの侵略を批判する立場がほとんどだろう。だが我々はただ批判するだけでなく、戦争を語る方法や戦争に関する情報の受容についても丁寧に行う必要があるのだ。

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