思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

武田哲学の芯に迫るためのインタビュー  内田卓志

2023-03-17 | 恋知(哲学)

武田哲学の芯に迫るためのインタビュー=内田卓志



8年前のものですが、再度投稿します。いっぺんには載せられませんので、3、4回に分けて。武田


 以下は、内田卓志さんからのメールです。
 内田さんは、早稲田大学で哲学を専攻し、プラグマティズムを中心に研究し、「京都フォーラム」での発題者の一人でした。石橋湛山の研究家でもあります。

 

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   武田哲学の芯に迫るためのインタビュー=質問       内田卓志

 

  もう武田先生と知り合って10 年以上になります。先生と私の出会いは、わたしが2000年12月に沖縄旅行で偶然にも出来たばかりの『白樺文学館』の小冊子(先生制作の豪華パンフレット)を手にしたことによりますね。実は、 それ以前の1990年に岩波の月刊誌『世界』に載った武田論文を読んでいて存じ上げていたのですが、その辺は、別途話すことにしまして・・・。 

 いつだったか、私の敬愛する哲学者の山脇直司先生は、武田哲学を称して、「エロースの哲学」と言っていましたね。武田先生に10年師事してきて、「そうなんだろうな」と思います。これから武田先生の哲学の芯についてせまりたいです。私がインタビューしますので、ご教示下さるようお願いします。いろいろ質問します。

 私は、武田哲学の柱には、哲学(恋知・愛知)とは何か、哲学的思考は、どのように行わるべきか、との問題意識と共に、哲学を現実の生活(世界)に活かす方法、哲学を役立てることについての、具体的な思索が常にあると思っています。それは別に、プラトンでもなければ、カントやヘーゲルでもない、ましてはハイデガーの哲学でもないでしょう。

 武田先生、それでは伺います。先生は、30年以上に渡り個人の<主観性>を強調されてきたと思います。そして、もう一つ大切な哲学的知としての<全体論>がありましたね。先生は、全体論について、以前たしか大工さんが家(建物)を建てるときの例?を使って説明されていましたね。これらのことから話題にしたいと思います。

 まず、全体論について、全体論は、哲学的には存在論の考え方として、<原子論>(アトミズム)に対して<全体論>(ホーリズム)として提出されることがあります。<主観性>は、当然に<客観性>に対する言葉で、主観性を「個」と考えれば、客観性を「全体」と考えられるし、「個人」にたいしては、「社会」との対比で論じることもできると思います。(実存に対しては、構造とか・・・)

 そこで質問です。私が思うには、先生の言われる<全体論>と<主観性>の関係です。普通に考えれば、全体論を強調するには、客観性を強調し、原子論を強調するには、主観性を強調するのが、すっきりと対応関係として考えられるのではないでしょうか?よく学校の先生から言われました。「物事を全体的・客観的に考えろ・・・・」と。

 この関係性について、どう考えればよいのでしょうか?哲学の考え方は、一般的に考えられているもの、言葉として一般的に使われている使い方とは違うのでしょうか?よろしくお願いします。

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  内田さん、よいご質問、とても感謝です。          武田康弘

 

   早速ですが、まずはじめに、
フィロソフィ(恋知)の土台とは、人生の意味や価値、生き方を考える営みですから、個別の学問(諸科学)とは異なり、部分を問題にするのではなく、全体を問題にします。生き方の部分とか専門というのは、ありえない話ですから。


個別学問(諸科学)は、対象を狭く限定することで、細かな観察や実験を可能とし、いわゆる「客観性」を獲得できるわけです。もちろん、何をどのよう認識するのかは、人間の欲望、関心や必要や目的という主観的な領域の問題です。

わたしは、木を詳しく観察するすることと、その木が生えている森全体を見ることはどちらも必要という考えですから、部分と全体の往復になります。

内田さんの言われるホーリズム(全体論と訳される)とは、現代哲学のクワインに端を発しますが、わたしは、それを主題化したのではなく、もっと広い意味(=日常言語の次元)で、部分と全体についてお話しています。

認識は、個別科学において客観性を目がけるという認識であれ、主観の欲望=関心・目的・必要により成立しますから、主観のありようを注視し自覚化することは、何より大切になるわけです。フィロソフィとは「主観性の知」です。

人間を惹きつける対象&惹きつける作用である「エロース」は、フィロソフィを成り立たせる動因であり、それなくしては、混沌と広がる世界を意味づける=秩序づけることはできませんので、エロースは、武田フィロソフィーというより、古代アテネのソクラテス出自のフィロソフィーそのものと言えます。

なお、「客観学」(知の手段)と「主観性の知」(知の目的)の日本における逆転については、参議院事務局から依頼された論文『キャリアシステムを支えている歪んだ想念』に記しましたので、見てください。この知の逆立ちを自覚している人は、学者を含めてほとんどいませんが、ここに「日本人の根源的不幸」(外の価値に呪縛され内からの生がない)があります。
http://www.shirakaba.gr.jp/home/tayori/k_tayori108.htm

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