思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

内田卓志による武田哲学へのインタビュー 4(いったん完結)イデア論。哲学とは学問ではなく、端的に知的。

2023-03-20 | 恋知(哲学)

 

内田卓志による武田哲学へのインタビュー 4(いったん完結)

 

「つまらない顔はイヤ」からはじまったー武田哲学のルーツと質。

2016-01-04 | 恋知(哲学)

インタビューの続きです。

最近は、プラトンを30年ぶりに再読しています。ちょっとですが。納富信留教授の『プラトン―理想国の現在』も読んでみました。さすが納富教授、素晴らしいプラトン論のひとつと拝読しました。

そこで、質問します。プラトンが、『ポリテイア』で主張している「イデア」についてです。この著は、日本では「国家」と訳されていますが、かつては「理想国」と訳されていたようです。

プラトンは、武田先生に最も影響を与えた人ですね。そのプラトンの国家編でプラトンは、イデアについて主張します。イデアは、ある絶対的な超越性を言っていると思います。先生は、超越性原理を批判されますが、その文脈の中での「イデア」について教えてください。 その意味とその役割について。イデアを絶対的な超越と考えると武田哲学とは、相いれないことになるとおもうのですが、如何でしょうか。 

内田卓志

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内田さん、そう、「理想国」なのです。プラト ンは、「ポリティア」の最後に、今まで書いてきたことは紙の上の話である、と明言しています。まさに、紙の上の「理想」であり、思考実験 です。

また、「イデア」を絶対的超越と読むのは、キリスト教を常識とした16世紀に始まる近代の西ヨーロッパ人による読み方です。日本の学者も ずべてそれにならっていますので、同じです。

イデア論は、唯名論として見れば、現代では言語論の常識であり、すんなり理解できるとするのが、わたしの考えで、そのような読みにより武田思想は成立しています。

プラトンのソクラテス対話編は、「絶対的真理を求めるもの」とは読めません。「絶対的真理」とは異なる「普遍性の探求」として捉えない と、古代ギリシャのフィロソフィとキリスト教ーー大きく異なる思想を同一のものとする愚を犯してしまいます。

そうなれば、近代の西ヨーロッパのキリスト教化された哲学の見方で、ギリシャのフィロソフィを知ることになるわけです。

なお、わたしとソクラテスの行為(プラトンの著作)との関係についてですが、
ソクラテスを知った後で、わたしのフィロソフィ(自分で自分の経験を基に考える営み)があるのではありません。小学生以来の考える=哲学 する営みが先にあり、そのわたしの思考方法をサポートしてくれるものとしてソクラテスを見つけた、というのが事実です。

プラトンの著作を読んで、今のわたしの思想があるのではなく、いまに役立つように使用してきたのです。

プラトンの後期はピタゴラスの神秘思想の影響で難しいものとなっていますが、それについての解釈は別の人に譲ります。わたしの興味の埒外 ですので。


武田康弘

武田先生

『わたしのフィロソフィ(自分で自分の経験を基に考える営み)があるのではありません。小学生以来の考える=哲学する営みが先にあり、そのわたしの思考方法をサポートしてくれるものとしてソクラテスを見つけた、というのが事実です。』

先生の発言は、私には誠に羨ましいかぎりです。私には、このような体験が無いので最初は信じられなかったのです。まず本を読んで勉強した後に気づいたり、考えたりして、世界の見かたが変わる。つまり視線が変わることはあります。その上で考えてみて、実行したりします。私は、この繰り返しです。

私が、先生のような思考の訓練をしてこなかったせいなのか。理由は、分かりません。その意味で羨ましいのです。「哲学する営みが先にあり」との発言を信じるしかないのです。理由を少し述べます。

私は、10年以上白樺教育館の仕事を見ていますが、さて学問の研究家に「このような仕事ができるかな」といつも思うのです。教育論のところで詳細を語って頂きましたので、ここでは省略します。

ただ、一人で、40年こつこつと自らの思想に基づく教育活動により、生活を建てていることが凄い。このことは、特に強調しておきたい事実と思います。

私も優れた研究者の方々に接する機会がありました。研究者は文献を正確に読み緻密に解釈して、自らの考えを表現します。「初めに文献ありき」、ということでしょう。文献学的な知のあり方や使い方では、白樺教育館の維持は困難だとわかったのです。どちらが、優れているとかいっているのではなく、白樺の活動を行おうとすれば、そのような文献学的知の使い方は、むいていない、効力が少ないということです。「自分で自分の経験を基に考える」営みから導かれた、フィロソフィーに基づき子供に対峙し交わる。私は、その活動の成果を見ていますので、信じると申し上げるのです。つまり、学問の世界と具体的な経験の生活世界とでは、知のあり方、知の使い方が、異なるということでしょうか。

武田先生の主張するフィロソフィーは、学問ではないので、非学問的な知恵に支えられているのですね。

ーーーー

続けて、

次にプラトンのイデア論のこと、

先生のお立場は、「絶対的超越」と読むべきではない、イデア論は、唯名論として見れば理解できるとのことですね。そのような文脈の上に、武田先生の思想は成立していると理解しました。

プラトンのイデア論は、いまだに議論のあるところで学問的にどう理解すればよいのかは、分かりません。後期プラトン哲学は、先生もご存じの通りイデア論を否定しているとも解釈されます。この問題は、学者におまかせしましょう。

ただ、私もプラトンのソクラテス対話編は、「絶対的真理を求めるもの」と理解すべきではないと思います。自らの不知を最も自覚したソクラテスが、絶対的な真理を追い求めるのは、言語矛盾のようにも感じます。それよりソクラテスは、普遍性の地平を探求していたという先生のご解釈のほうが私には、「ピン」ときます。先生は、プラトンいうイデアは、あくまでも「理想」(追い求めても離れていく存在、どこまでも到達できない場所)を語っているので、それを絶対的超越とか超越性原理と考えることはできない、というご主張だと分かりました。

フェイスブック上でも、先生へのインタビューから対話が始まっているようですね。私も楽しみです。

 ※イデア=理想とは厳密には理解すべきでないとか、研究者の間では議論があります。納富教授もそのような見解ですが、結論は結構武田先生のプラトン理解ににも近いと感じます。その他プラトンのことで語りたいことは、つきません。戦前の南原繁の『国家と宗教』でのプラトン理解は、学者の良識の頂点のような勇気ある著作でした。 

内田卓志

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内田さんの実存的レベルの話が入ったので、とても分明で、優れたインタビューになりました。ありがとう!
武田康弘


7さいー小学2年生のわたし
 (撮影は、父)

なんで、皆、つまらない顔をしているんだろう?
楽しそう、とか、嬉しそうではなく、曇った顔をしている。
生き生きしている人は少ししかいなくて、かたい顔、濁った顔が多くて、魅力のある人は少ないな。

小学生のわたしは、学校でも街でも電車の中でも、つまらない顔をしている人が多いのが疑問でしたし、嫌でした。

それが人間の生き方を考える一つのキッカ ケとなりました。

どのように生きるのがよいのか?
何と、どう向き合って生きるのがよいのか?どんな態度で生きるのがよいのか?
楽しく、イキイキと、よろこびの多い生き方、意味の濃い、深く納得できる生き方、それは何か?どう考えればよいのか?

そう思い、悩み、、考え、試して、対話して、という人生は、そのようにして始まったのです。
幼いころから、父への質問は毎日のようでしたし、友人との話も、意味や価値を問う内容で、知らずに、フィロソフィの毎日だった、というわけです。

だから、書物もよく読みましたし、これは、と思う本は、書き込みをしながら熟読しました。中学2年生の時にお小遣いではじめて買ったのがヤスパースの『哲学入門』でしたが、感動しつつも、賛成できないと思うところもありました。

書物は書物としてしっかり読み、わたしが思考する訓練や手助けとしましたが、哲学書が真善美の基準になることはなく、ある考えが、【私の赤裸々な精神= 頭と心身の全体で感じ知る現実】に如何に応答するか、それが基準なのでした。
『聖書』などの宗教書は真面目に読むほどに、その独特の雰囲気=超越的思想に嫌気がさし、わたしの宗教(一神教)嫌いを決定的にしました。イエスその人への評価とは別の話ですが。

 
また、それと同時に、真理とは何か?どの ように考えるのが「正しい」のか?という純哲学的=学的追求も執拗なまでに(笑)行いました。認識論の原理としての現象学です。

簡単ですが、これが、内田さんの最初の質 問へのお応えです。

次に、フィロソフィの本質に関わる核心点についてお応えします。

内田さんは、思想や哲学について、【学問的・文献学的】と【非学問的知恵】という区分けをされましたが、大事なことなので、確認します。

ソクラテスは、話しことばによる問答的思考で、本を書かず文字を残しませんでしたので、彼の知的営みは、文献学的・学問的とは言えません。

またインドの釈迦の解脱、自帰依ー法帰依の思想も文献学とは無縁で学問的ではありませんでしたし、イエスの既存の世界の常識を覆して新たな世界を拓いた言辞行為も、少しも学問的ではありません。

近代の西洋哲学の始まりはデカルトですが、彼の有名な『方法序説』は、書物を捨てて体験に基づいて考えることを宣言した本で、まったく文献学的ではなく自説を述べた本ですので、少しも学問的ではありません。

また、『社会契約論』を書き近代民主政の原理を提示したルソーは、恋愛小説家として知られ、家庭教師もして生計を立てていた人で、社会思想の研究者ではありませんでした。『社会契約論』は、新しい社会原理のアイデアを打ち出した書で、文献学的ではなく、これもまた学問的著作ではありません。

それらはみな「文献学的・学問的」でないのですが、彼らの本を研究する今の学者の営みは、文献学的・学問的です。そうすると、人間の生き方を考察し、新たな人間観や社会観を示した人や書物は、非学問的で、彼らの本や人となりを研究するのが学問的だと言うことになります。

 
思想や哲学においては、「文献学的・学問的」というのは、過去の人や書物の研究ですが、それが思想や哲学という営みの中心・本体なのでしょうか。思想や哲学の中心・本体は、過去・既存ではなく、未来に向かう精神から生まれる知的営みではないでしょうか。飛翔するイマジネーションによる思考こそが思想や哲学の中心・本体ではないでしょうか。

わたしが思うに、思想や哲学の中心となる営みは、学問的というのでなくて、ストレートに【知的】なのです。

ここで、ひとつ大事な知識を披露しますが、知的という「知」とは、「知恵」という意味に限定されません。知識と知恵を分けてしまうのは、分類好き(分類趣味)のアリストテレスによるもので、ソクラテスとその弟子のプラトンには、知識と知恵を分ける考えはありませんでした。知的とは、よくみなが言う「知識」と「知恵」の双方を合わせた概念なのです。わたしの言う「知」とは、そういう意味の「知」です。また「主観性の知」であるざまな創造、講演や作文などは、最高度の知的作業です。

思想や哲学の営みは、【知的】なのであり、学問的なのではありません。過去に囚われた文献学ではないのです。過去は手段としてあり、中心・本体は、未来への豊かなイメージに支えられた今なのです。

以上は、核心中の核心(原理中の原理)と思います。

 
武田康弘

 

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