★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

2012-09-25 23:46:58 | 映画


火野葦平や斎藤茂吉が戦時下の馬に思い入れを持っていたことは、彼らの作品から想像がつくが、どこかしらメタフォリカルにかんじる。それよりは、山本嘉次郎監督の「馬」(昭16)の方が私は好きです。東条英機の言葉が冒頭に掲げられた戦争の影著しい映画である……高峰秀子演じるいねは、育てた馬を買い戻すために、紡績工場にはたらきに出たりして一生懸命。借金を返すために馬を売らなくてはならなくなったが、馬市でもなかなか借金を返すほどの値が付かない。最後に彼女の家の希望を叶えたのは軍であった。馬は高額で軍馬として買われていって、彼女の家の家計を助けたわけだし、いね自身も国に奉仕したことになるのであろう。が、最後に軍馬として列をなして歩いてゆく馬を必要以上に執拗に撮影し、お金が入って喜ぶ家族を「うるさい」と叱責しながら、遠ざかる馬の足音に耳をすますいねの泣き顔で終わるこの映画は。果たして国策映画なのか。(一説によると、高峰秀子が手をかざしてよく聴こうとしている耳は、幼い頃病気で聞こえなくなった方の耳だったそうである。)彼女は、もう国から馬を取り返す訳にはいかない。自分たちの生活と引き替えに馬を売り渡したに過ぎない。これは馬だけの問題ではない、馬の代わりに人間だって売られていた時代である。……ということは、国策映画ではなくても、国民感情を逆撫でしない程度には、ナショナリスティックな映画であった可能性はある。辛うじて、それを乗り越えてしまうのが、主演者のパセティックな感情表現である。「二十四の瞳」の場合もそうであった。

耐えてばかりいる庶民を描いても、それが怒りには変わらないところがミソなのである。高峰秀子の著作を読むと、彼女はいつもプンスカ怒っているような感じであるが……。