研究や論文に追われ鈴虫さえ神経に障るような季節になりましたがみなさんいかがお過ごしですか──というのはまったく社交辞令である。この夏に堪った鬱憤を学生達が教育実習で立ち往生しているのをみて内心大爆笑しすっきりする季節になりましたがみなさんいかがお過ごしですか。
教育実習というのは、学生の指導をする先生はまったくもって災難としかいいようのない苦痛を味わうし、学生は「指導者」としての実力どころではなく、学力自体あまり生徒と変わらないことを自覚してショックを受ける非常に苦しいものである。よくメディア上で教育について偉そうなことを抜かしている御仁がいるが、一回教壇に立って立ち往生してみればよいのだ。こういうと語弊があるが──、極端にいえば、人間的に問題がある現役の教員の言うことはまあ聞くけれども、人間的によいと自分で思っている素人の言うことは一言だって聞かないのが生徒達である。教室への入って行き方や授業を定刻に開始することさえもすごく難しいことである。私は、大学での教育経験が中心だから、予想するしかないが、──そもそも、新卒の教員がまともに教室の秩序をつくりあげることができるまでには、だいたい5年以上はかかるのではなかろうか。ちょっと教育するのがおもしろくなってきたと思えるのが10年ぐらいか……。無論、はじめから教員に向いているような人間がいて、えらく授業がうまい奴もいるのであるが、その人が順調によい教員に育つかはまったく分からない、寧ろ将来は危険だとみなした方がよろしい。……といった具合であって、それに加えて、国が無責任に抽象的な文句で命令してくるわけわかんない目標に対応もせねばならず、襲いかかってくるそのときどきの日本社会の「空気」や「風潮」のなかでも何とかやっていかねばならない。教育実習も大変だが、運悪く教員になってしまった暁にはもっと酷い現実が待っているのだから大変だ。というわけで、学生諸君も教育実習で一喜一憂している場合ではないのであるが……
それはともかく、最近、公開授業をみていると、単なる作品の誤読が目立つようになってきた。これだって、誰もがおかすことであるが、年々誤読が顕わになってきているのが気になる。口で言うほど簡単なことではないが、「作品が読めていない者に教える資格はない」のである。それが最近、言語能力重視(←だいたいこれ言いたいことが分からん)の傾向や、生徒の主体的学びを「支援」するといった空言的コンセプトに後押しされて、教師が作品の一番重要なところを教え落としても、生徒が成長すればそれでまあよし、と無理矢理「考える」風潮が見られるような気がする。それは、ほんといえば、生徒の成長は結局のところよくわからんものなので、生徒がなんだか喜んで活動していることで教員が満足してしまう傾向を生む。主人の指令さえ理解できればよい属国の国民ならともかく、教員が国語を教えるというのは、きちんとやれば、先人が遺した知を不可避的に良くも悪くも受け渡してしまう営為である。作品が主で受け手は従である。この感覚が分からない人間は、なにかあるとすぐ対等なコミュニケーションとか言い出す。以前、文学作品なんて誰でも教えられるが討論を教えられる教員は少ないとか偉そうに言っていた社会学者がいたが、どちらも難しいしその二つは厳密に言えば別のもんじゃねえよ。生徒にとっての目標だとか──、本当はそれを目標にしていいか誰にも答えられないものを目標にしてしまうことによって、あるいは、作品の読解をねじ曲げてでも、その目標に従って着地させてしまっている授業さえあるのではなかろうか。私のみたところ、学生の力量不足により単純に誤読をやってしまった授業と、作品の読解が必ずしも結びつくとは限らない授業目標との整合性を図った結果、嘘を付かざるを得なかった授業とがある。前者と後者の比率はよく分からんが、この二つが並存している感じがする。あるいは、後者の隆盛によって、結局は前者に陥る学生が増えているのかもしれない。
教育実習というのは、学生の指導をする先生はまったくもって災難としかいいようのない苦痛を味わうし、学生は「指導者」としての実力どころではなく、学力自体あまり生徒と変わらないことを自覚してショックを受ける非常に苦しいものである。よくメディア上で教育について偉そうなことを抜かしている御仁がいるが、一回教壇に立って立ち往生してみればよいのだ。こういうと語弊があるが──、極端にいえば、人間的に問題がある現役の教員の言うことはまあ聞くけれども、人間的によいと自分で思っている素人の言うことは一言だって聞かないのが生徒達である。教室への入って行き方や授業を定刻に開始することさえもすごく難しいことである。私は、大学での教育経験が中心だから、予想するしかないが、──そもそも、新卒の教員がまともに教室の秩序をつくりあげることができるまでには、だいたい5年以上はかかるのではなかろうか。ちょっと教育するのがおもしろくなってきたと思えるのが10年ぐらいか……。無論、はじめから教員に向いているような人間がいて、えらく授業がうまい奴もいるのであるが、その人が順調によい教員に育つかはまったく分からない、寧ろ将来は危険だとみなした方がよろしい。……といった具合であって、それに加えて、国が無責任に抽象的な文句で命令してくるわけわかんない目標に対応もせねばならず、襲いかかってくるそのときどきの日本社会の「空気」や「風潮」のなかでも何とかやっていかねばならない。教育実習も大変だが、運悪く教員になってしまった暁にはもっと酷い現実が待っているのだから大変だ。というわけで、学生諸君も教育実習で一喜一憂している場合ではないのであるが……
それはともかく、最近、公開授業をみていると、単なる作品の誤読が目立つようになってきた。これだって、誰もがおかすことであるが、年々誤読が顕わになってきているのが気になる。口で言うほど簡単なことではないが、「作品が読めていない者に教える資格はない」のである。それが最近、言語能力重視(←だいたいこれ言いたいことが分からん)の傾向や、生徒の主体的学びを「支援」するといった空言的コンセプトに後押しされて、教師が作品の一番重要なところを教え落としても、生徒が成長すればそれでまあよし、と無理矢理「考える」風潮が見られるような気がする。それは、ほんといえば、生徒の成長は結局のところよくわからんものなので、生徒がなんだか喜んで活動していることで教員が満足してしまう傾向を生む。主人の指令さえ理解できればよい