★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

ABC予想と愉快な仲間達

2012-09-19 23:02:24 | 大学


京大の先生が、所謂「ABC予想」を証明したと話題である。(所謂とか言ってるが、そんなのはじめて聞いたぜと言う人→わたくし

わたくしも高校までは「自分は結構理系」(実際、理系教科の方が点数は高かった)と思っていたところ、ある日突然分からなくなったクチであるが(たぶん、そんなことはなく、どこかで勉強をさぼったのである)、やっぱりインテリ面したいなら、高校の最後までは数学をやるべきだと思うのである。分からなくてもいいのだ。自分がどれだけ論理的じゃないか自覚してやり終えることが重要である。だいたい、国語だって、わたしのみたところ、高校生の9割方おちこぼれている訳だから、同じ様なもんだ。減点方式をやめてミロよ、ほとんどの奴が0点に近くなるはずである。教員にその勇気と能力がないからそれが出来ないだけだ。そしてそんな教員に育てられた国語の教員はといえば、実際のところ7割方が「国語の苦手な国語教員」なのである。教育を語る連中は、そういう現実をちゃんと分かっているであろうか。わたくしのみたところ、文章を読む時にがさつなやつがいじめ対策なんか出来るのかよ、という感じである。この世界の読解は文章の読解と似ている。鈍すぎて当然気づくべきものも気づかないんじゃないか。「他人に思いやりをもつべし」と思っていてもそんなもんまったく関係がない。思いやる能力はほとんど文学的能力に等しい。その能力の欠如はもうすでに他人に対するいじめである。したがっていじめは我々のコミュニケーションそのものであり(笑)あとは社会通念の問題であろー。

という具合で、またつい妄想に浸ってしまった訳だが……。わたしは妄想は許せるが観念論は許せない。ちゃんとした妄想は論理的であろうが、観念論は言葉の遊びだからである。どうも、観念論ときちんとした理屈の区別が付かないタイプがインテリの中にも大勢いるようである。一見、科学的である外構をもっていて(自分でも科学的だと思っていて)もちゃんとした理屈で考えられない人も同類である。やっぱ数学やんなきゃだめだあ……(←といっても、数学挫折した奴の空想だけどもね……)