死ぬ前の三島由紀夫が「これは嘘だ」と激怒していた「最後の特攻隊」という映画を観てみたのだが、まあ彼が怒るのは無理もない嘘つき映画であった。まあさすがに人間ならもう少しいろいろなことを考えたであろうと、戦争を知らぬわたくしでさえ思った。戦前の若い文学者の書いたものを見る私は彼らの孤独感と西洋を学んだものとしての思考の錯乱を舐めるわけにはいかないからである。彼らが、特攻によって少しでも日本が滅びないようにと、あるいは敗戦後の日本に少しでも利するようにと、単純に考えていたとはとても思えない。もっと様々な理由をつけていたにちがいない。
にしても、彼らがいわば「死の贈与」によって、残された者にものを考えさせようとしていたことも確かであろう。しかし、もはや死によって何かを訴えようとしていたとしても、その何かがなんだかよくわからないがために、死によって何かを訴えようとしているとも考えられる……。もう既に万策尽き果てているにも関わらず、特攻などという策を考えてしまったバカと、思考停止している点ではおなじような状態にあったのかもしれない訳である。わたくしは、よく言われる「思考停止」がナルシシズムと常に関係あるとは考えない。自己愛に関係なくても思考停止は起きる。数学の問題が解けない状態を考えてみればよい。あれと同じだ。しかし、そういう思考停止においても、我々がいろいろ考えていることは確かで、それを否定するのはばからしい。が、学校の勉強について行けなくなったからいって、常に母親や子供のことばかり考えるわけではないのである。
それに、「死の贈与」によって後に残されたものが、よくよくものを考えるようになるという想定が、そもそも甘すぎる。残された者は日本人だけではないし、その日本人の中においても、「日本のために戦火に斃れた英霊に対して哀悼の意を表するのは日本人のつとめ」などと、三島由紀夫もびっくりのオカルトタイプの祈祷専門家が大手を振って歩く状態になったのを如何せん。まあ何が英霊じゃアホか、と思わなくはないが一概にはいえない。小島毅氏だったか、どうも英霊は大和言葉じゃなくて儒教なんじゃないか、といった研究が確かあったはずであるからして、どちらかというと中国の魂を多分に含んだ方のなかで、英霊の声が聞こえる人も実際いるだろうからな……。その声がどう言っているかは知らないが、英霊としてはまともな愛国者のいる文化の中にしか帰りたくはないであろう、とわたくしは推測する。そもそも靖国で会おうと言ったって、死んでてほんとに会えるか不安だった者はかなりいるに違いないし、梅崎春生の小説なんかを読んでも、戦友の中には二度と会いたくないやつが相当混じっていたにちがいないのは察しがつく。さすれば、恋人や妻の元かもういまや大概亡くなっているであろうお母さんの元に昇天してゆきたくなるだけであろう。……まあいずれにせよ、あの世のことはよくわからんから、祈ってる暇があったら、未来をちゃんとシミュレーションすべし。庶民は別にいいよ、そんな義務もないわけだが、政治家はちゃんとやってくれ。西洋から受けたひどい仕打ちへの恨みを晴らすのはいいとしても、その結果、原子爆弾で人体実験を二回もやられた上に、七十年以上にわたって占領下に置かれるとは……、しかし、本当は一部のエリート政治屋は予想していたはずなのである。それを退職間際の管理職おじさん政治屋が、頭が働かずに見ないふりすら出来ずに認識できぬ状態にあったのか、悲惨な未来を推測した者も、実は、そうなった方が自分に得だと判断したかである。私は、後者の可能性も強く疑う。グローバル化がナショナリズムの原因であるような状態は、あまりにもありふれた状態であり、戦前の知識人ですら、そのあとの状態をいろいろ夢想していたわけである。中国式であろうとヨーロッパ式であろうと押し寄せてくる何者かから島を防衛する道が、案外理念にしかないことを、戦前の知識人の方がわかっていたような気がしないでもないのだ。しかし、そうではなくて別荘とかアメリカの友人とのおしゃれな会話とか、そういうものに目的を置いているエリートというのは同時に多かったはずだ。この人たちの世渡り術の小ずるさを、また舐めていけないのである。まあ英霊にもそんな具合にいろいろな顔をした者がいるであろうて。