こういう日は、鹿児島を描いても氷点下の長野みたいな絵になってしまう新海誠の『秒速5センチメートル』など観て心から寒くなるのはいかがでしょうか。
ナラトロジー的な観点からいっても良く出来た作品のように記憶している。語りというのは、語りの問題性が物語と絡んでその機能が悲劇的に露出してしまう場合がもっとも文芸作品の機能として輝くような気がする。それを自意識の球体のようにあらかじめ想定された場合はあんまり面白くない。
思うに、この作品は、携帯がない時代とある時代の変化をも描きこんでいるわけであるが、携帯電話(のメール)によって、遠距離恋愛などが特にロマンではなくなった時代において、ロマンを作るにゃ原則の則り、「遠くへ遠くへ」というわけで、宇宙の果てまで主人公を飛ばすとか、虚無での飛行を想像させるとか狂気すれすれのことまでやらすというのが、この人の作品の特徴であろう。といっても二つしか観たことがないが……。で、我々は、物理的な距離「感」が消滅する中で、ほんとの心的な距離感をメールの中に一生懸命探すようになってしまったわけである。だから、我々は下手すると、『秒速5センチメール』の結末を、遠距離恋愛のすれ違いの良くあるロマンスとしての悲劇ではなく、いまさっき目の前にいる異性とのすれ違いとか誤解がとけないことの悲劇として感覚しがちなのである。我々の世界は、ほとんど書簡体小説じみているわけであるなあ……
暑苦しくなるわけだ……