★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

完全に蒼い無の中へ

2014-06-11 23:49:05 | 文学


 嘗つてそんな船は存在もしていなかったように、何らの手懸りもなく、船全体から乗客、乗組員の全部が、そっくり其の儘、海洋という千古の大神秘に呑まれ去った例は、古来、かなりある。が、この行方不明船のなかでも、ここに述べる客船ワラタ号 The S.S Waratah の運命は、比較的近頃の出来事であり、そしてまた此の種の怪異のなかで最も有名な事件であると言えよう。一万六千余噸の大客船が、文字通り泡のように、何処へともなく消え失せたのである。まるで初めから空想の船で、てんで実在していなかったかの如く、その船客と乗員とともに、完全に蒼い無の中へ静かに航行して行ったのだ。一団の煙りが海面を這って、やがて吹き散らされ、水に溶け込むかのように――。

――牧逸馬「沈黙の水平線」