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村を出拔けると、霧の間から白樺の林の樹幹だけが、ぼんやりと兩側に見えて來た。しとしと草を踏んで行く自分の草鞋の足音だけが耳に入つた。不圖立ち停ると、急に周圍がしんとして來る。霧が一層濃く覆ひ被さつて來るやうな氣がする。其中で、霧が林の木の枝に引きかゝり、白樺の簇葉にからまつて、やがて重い露となつて、ぼたぼた草の上へ落ちるのが聞える。[…]新聞も見ず、手紙も見ず、友人にも離れ、知人にも逢はず、職業にも刺戟にも都會のどよめきにも、電車の響にも總てに離れて、私は歩いて行く。廣い自由の天地の中をたゞ一人で歩いて行く。其時私の心の中へ、胸の中へ、頭の中へ、浮んで來るものは何であらう。私はその者を捉へたさに、その者の閃きが何處へ現はれようとも、――森の中であらうとも、山の頂であらうとも、海岸であらうとも、力の總てを盡してその方へ走らずに居られない。
――吉江喬松「霧の旅」