教授会とFDに出席したので胸がざわざわします……観察と考察……原因を自己に探ることの出来ない人間は、必ず嫌がらせしかしなくなる。自覚はないかもしれないからやっかいである。馬鹿は黙らなければならないというのは、学問を通してしか学べない。そりゃ学級崩壊が止まらないわけである。モラルは学問を通してしか身につかない。なぜそれが分からないかと思うが、考えてみりゃモラルがない人間がつねにモラルを問題にしているのだった。
大澤真幸の「死の欲動」の解釈は面白かったな……と思いながら、授業の準備をする。三島が説明できるようだが、川端とかは……
「蒲団」の時雄の行動が、性欲に突き動かされているようで、抑圧によって突き動かされているのは周知の事実だが、すると、今度のセクハラ(オ)ヤジ問題も、自民党の親父が男尊女卑でどうしようもないブタどもであるということで片付けていてはならないことは明らかだ。彼ら自身も、安吾の「デカダン文学論」の藤村ではないが、親しい女性にしか手を出せないような「愛する者を愛す」と言えない病んだ空間に絡みとられている可能性がある。わたくし自身も何人か、自民党の代議士を知っているが、一見、人情に富んだ『しっかりしている寅さん』みたいなやつが多い。寅さんはなぜ人情味があるのか。それは流浪の身だからであって、あれが家庭を持ってみなさいよ。男は家庭をもってなんぼ、とか、家庭を大事に、などなどのモラルを振り回して自らを抑圧する代わりに、部下に手を出したりするのではなかろうか。モラルがあるからセクハラもするという現象を軽視するべきではないということである。わたくしは思うのだが、都議会の議員のオヤジどもは、かなり塩村議員に惚れており、「早く結婚しろ」というのは、「僕と結婚してください」という意味ではないか。そもそも威勢のいいヤジが本音とは限らないのである。ヤンキーとかヤクザの咆吼が本音ではないのと同じである。安吾が言うように、自分のための淪落ではなく、自分のために既成のモラルを模倣することによってのし上がった連中がこうなる。彼らは、安吾のいう意味での『人間』ではない。教師に、性犯罪が多くなってきた?のも、教師がこういう政治家に近くなってきているからである。学問も試行錯誤もなしに、教員っぽい言動とスキルを身につけるからこうなるのだ。教育学部に限らず、大学で職業訓練に近いカリキュラムを組めば組むほど、本質的な意味でハラスメントが横行するようになるというのが、わたくしの予測である。しかし、当然である。出世したり、会議で威勢よく文句をつけたりする人間は、上手にハラスメントする技術を持っているやつが、現に多いのであり、そういう人間が密かに望まれているからである。ちなみに彼らは、自意識においては公正さとか正義とかに立脚していると思っている。……と考えたら、昔からそうだった気もしてくる。変化したのは、政治家と教師、ヤンキーとヤクザの自意識に共通性を感じてしまうような、わたくしのような感性が繁茂するようになったことなのかも知れない。でもやっぱり、最近は共通性がある気がするなあ……。
で、ヤジを受けた塩村議員もなんかニヤニヤしてしまった訳であるが、これもよくない。なぜ怒らない。謝ってきた何とかいう
サッカーも案の定負けたわけであるが、これは、モーゼのエジプト脱出と同じくらい当然である。「勝つしかない」とか「勝つ気が足りない」とか、日本人が負け戦のときに言う台詞である。戦争や争いは弁証法的科学なのだ。我々は、憲法九条とともに、その科学を放棄したのである。敗戦に納得いってない人間が多い割には、その科学の放棄に関しては日本人ほど忠実に守っている国民はいない。我々は、そのかわり萌え系は萌え系、ウルトラマンはウルトラマン、安倍晋三は安倍晋三、美しい国は美しい国、という自同律の美を選んだのである。もともと素質十分であったから、うまくいった。サッカー場はサッカー場。汚れて別のものに成ってはならぬというわけで、負けても勝っても清掃して帰る。さすがである。なぜ、負けて怒り狂わないのか。