
急に夫人は立ち止った。そして私は、夫人と私とがA氏の絵の前に立っていることに気づいた。その絵はどこから来るのか、不思議な、何とも云えず神秘な光線のなかに、その内廊だか、部屋だかわからないような場所の、宙に浮いているように見えた。――というよりも、文字通り、そのうす暗い場所にひらかれている唯一の「窓」であった! そしてそれの帯びているこの世ならぬ光は、その絵自身から発せられているもののようであった。或いはその窓をとおして一つの超自然界から這入ってくる光線のようであった。――と同時に、それはまた、私のかたわらに居る夫人のその絵に対する鋭い感受性が私の心にまで伝播してくるためのようにも思われた。
――堀辰雄「窓」