汝を囲める現実は、汝を駆りて幽遠に迷はしむ。然れども汝は幽遠の事を語るべからず、汝の幽遠を語るは、寧ろ湯屋の番頭が裸躰を論ずるに如かざればなり。汝の耳には兵隊の跫音を以て最上の音楽として満足すべし、汝の眼には芳年流の美人絵を以て最上の美術と認むべし、汝の口にはアンコロを以て最上の珍味とすべし、吁、汝、詩論をなすものよ、汝、詩歌に労するものよ、帰れ、帰りて汝が店頭に出でよ。
――北村透谷「漫馬」
考えてみると、透谷の意に反して?、彼の死以降の文学は案外「湯屋の番頭が裸躰を論ずる」みたいな感じになっているのが、面白いといえば面白い。
湯谷の番頭が裸体を論ずるのは、まだぼやけているものを注視するという緊張があったからよいかもしれない。「国としての誇負、いづくにかある」と力み返っている透谷のことである。しかし、総動員の時代になってからは、ぼやけていても軍事と非軍事の境がない訳で、ぼやけていることによってむしろ動員されているのであるから、幽遠に迷うことはまた更に難しくなった。お寺の鐘まで動員してしまった総動員体制である。これこそファシズムの本体である。軍事転用可能性があるだけで軍事研究じゃないと言い張ってみても、そういうグレーゾーンに全てを置いておいていざとなったら転用するというのが、総動員体制なのである。こんな、鐘と戦闘機の区別を死守しないような国だから「いざとなったら」を禁じておく他は手はなかったのだ。とか考えていたら、「一億総活躍社会」とか、総動員体制宣言が飛びだしたので、びっくりである。だめだこりゃ、全く進歩してない……
四国のどっかの駐屯地の式典では「南西諸島にゆくことも考えとかにゃ」とか司令が挨拶しとるし……。
だが、心には何物かゞあつたであらう。長い戦争の年内を通観して、やつぱりこの日は最も忘れ得ぬ日であり、なつかしい日だ。八月十五日に終戦の詔勅をきゝながら思ひだしたのは言ふまでもなくこの日のことで、時刻も其の正午、生きて戦争を終らうとは考へてゐなかつた。とはいへ、無い酒をむりやり探して飲んだくれ、誰よりもダラシなく戦争の年内を暮した私であつた。そして戦争はまだだらしなく私の胸の中にだけ吹き荒れてゐるのである。
――坂口安吾「ぐうたら戦記」
わたしは、学校をさぼりまくった安吾が、なぜ戦争に対し律儀に内面的になっているのか疑問を持つ。むろん、これは我々の課題である。