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皮肉なもので、批評家やジャーナリストの高級な価値判定と、読者の血肉としての受けとり方は違うことが多い。批評家やジャーナリズムは龍之介や潤一郎が高しょうに愛読され文学的に正しく読まれていると認定しているかも知れないが「大菩薩峠」や「出家とその弟子」や「宮本武蔵」が宗教的なふん囲気をもって熟読されている事実は是非もなく、これを硬派の読まれ方とすれば、前者は軟派的、女性的であり、一方が合掌的に、一方がため息的に、要するに読者の血肉の中へ読みとられている度合は同じことだろう。
高級をもって任じる批評家ほど、作品と読者の魂の結合に無理解なものだ。「戦後派賞」などがその好例で、あの作者の未来のことはとにかく、目下手習いの作品だ。高級を気負いすぎて独善的な批評精神は、コットウの曲線をがん味する一人よがりのワカラズ屋と同種のぜい弱さを骨子にしているものである。
百万人の文学の性格を一言にいえば、読者が血肉をもってうけとるにこたえるだけの、作者の血肉がこもっていなければいけないということで、鬼の一念によって書かれていることが条件である。
――坂口安吾「百万人の文学」
その東京の町々の燈火が、幾百万あるにしても、日没と共に蔽いかかる夜をことごとく焼き払って、昼に返す訣には行きますまい。
――芥川龍之介「妖婆」
もし、ただひとりの人間が最高の愛を成就したなら、それは百万人の人々との憎しみを打ち消すに十分であろう。
――ガンジー
加賀百万石
100万回生きたねこ
御母摩耶夫人の。孝養の御為なれば。仏も御母を。かなしび給ふ道ぞかし。
況んや人間の身としてなどかは母を悲しまぬと。子を恨み身をかこち。
感歎してぞ祈りける親子鸚鵡の袖慣れや百萬が舞を見給へ。
あら我が子。
恋しや。
――能「百萬」