渡辺一夫に『空しい祈禱』という本がある。昭和二四年の本で、本学の図書館にもあったので手に取ってみると、奥書の次の頁の余白に、当時これを読んだ大学生が感想を書いていた。
昔の人のなかには、本を買ったり読んだりしたときに、その場所や日付を書き込んだり感想を書いたりする人がいた。古本を買うと、そういうものに行き当たり非常に面白い。以前、西田幾多郎の『善の研究』にあまりの興奮の余り、これから弟子にしてもらいに京都に行くとか書いていた人もいたし(大正時代)、『佐野学著作集』の余白に、獄中の親戚に向けて独白している人もいて(戦時中)、その他いろいろと……。
笑ったのは、安倍能成の『岩波茂雄伝』の最後に、「岩波の売国目に余る」とか書いてあったもの。あと、改造文庫のなんとかいうマルクス主義の本に「天皇陛下万歳」と書いているもの……。
上の渡辺のものには、結構沢山書いてあって、「説教臭い」とか「サロンみたい」、「ヴァレリーとかなんとか言ってみてもつまらねえ」とか文句を言ったあげく、結局渡辺が文学者であることに問題があり、むしろ「社会科学的」な視点が必要だ、とかすごい剣幕であった。しかも、その左には、二年後の彼が再度書いており、「20の時の感想が右である」と始まり、なんだか長々と述べたあげくに「この書を手に取る後輩の諸君、われわれが日本人であることを忘れてはならぬ。」と書いてある。
いまとあんまり変わんねえなあ、と思う。確かに大学生の頃のわたくしも、渡辺のエッセイに「この隠れサヨクがっ」と思ったこともないではないが、べつに社会科学が足りてないからそう思ったのではない。社会科学が大切と思う人はまあ頑張ってくれたまへ。大学紛争の時、社会科学を振り回していた輩たちはいったいどこに行ったのだ。そろそろ総括してくれてもよいんでない?
で、教授会の後は、安里健『詩的唯物論神髄』を読みました。