長谷川龍生の『立眠』を読んだ後、福嶋亮太の『百年の批評』を瞥見する。わたくしは福嶋氏をわりと尊敬しているのである。東浩紀の周辺にいた人間の中で一番好きだ。氏の文章には、力をぬいたよいフレーズが時々ある。
長谷川龍生は久しぶりに読んだが、まさに彷徨という感じであった。70を越えて彷徨するのはおそらく大変である。わたくしは、大学の時、こういう彷徨はだめななのではないかと思ったが、いまはよく分からなくなっている。
ただ、思うに――、二人の作品よりもいまは光源氏が語る物語論の方がリアリティがあると思ってしまうのは何故であろう。
「こちなくも聞こえ落としてけるかな。神代より世にあることを、記しおきけるななり。『日本紀』などは、ただかたそばぞかし。これらにこそ道々しく詳しきことはあらめ」
まったくその通りなのだ。どうもわたくしは日本書紀みたいな歴史書だけでなく、歴史小説にも、なにか現実の過剰さからの逃避の側面を感じるのである。最近ちょっと「平家物語」も読み始めたが、これにも同様の感想を持ち始めている。思い込んだらあれというやつだ。
その人の上とて、ありのままに言ひ出づることこそなけれ、善きも悪しきも、世に経る人のありさまの、 見るにも飽かず、聞くにもあまることを、後の世にも言ひ伝へさせまほしき節々を、心に籠めがたくて、言ひおき始めたるなり。 善きさまに言ふとては、善きことの限り選り出でて、人に従はむとては、また悪しきさまの珍しきことを取り集めたる、皆かたがたにつけたる、この世の他のことならずかし。
それにしても、こういうことを考えている人の世界は実は狭かったりするのであるが、だからといってそれが悪いというわけではない。NHKの「100分de名著」で「平家物語」について、安田登氏が、侍というのは貴族と違って「闇」の認識力を備えていたと言っていたが、――だからといって侍がさまざまなことに対して眼が見えていたとは限らないと思うのである。