その五月のついたちに、姉なる人、子うみてなくなりぬ。よそのことだに、をさなくよりいみじくあはれと思ひわたるに、ましていはむかたなく、あはれ、かなしと思ひ嘆かる。母などは、みななくなりたる方にあるに、形見にとまりたるをさなき人々を、左右にふせたるに、あれたる板屋のひまより月のもりきて、ちごの顔にあたりたるが、いとゆゆしくおぼゆれば、袖をうちおほひて、いまひとりをもかきよせて、思ふぞいみじきや。
家事で猫が死んでしまったと思ったら、こんどは姉が子を産んでなくなった。残された子どもに月の光が当たって不吉だというので、その子を袖でかくしもう一人もかき寄せている気分はやりきれない。最近は、殊更「命の大切さ」を教育して、逆に命を楯によからぬ事を考える素地をつくったり、大切な人以外の命を軽んじるようになったりと、あまりうまくはいっていないようである。そもそも人類は、いままで命を大切に扱ってきたとはいえない。どちらかというと、精神の「健康」や集団の「健康」のために、広い意味で人殺しをしてきたのであるから、本当に「命の大切さ」を至上とする社会をつくろうと思ったら、いろいろなものを作りかえる必要がある。そしてその際、多くの人間性がそれに抵抗するであろう。子どもの死にあまり出会わなくなったことも、「健康」を至上とすることを自明と考えさせる。我々が生きていること自体は、医学のおかげもあるけど、根本的には「偶然」である。健康であることがそれ自体を生であることと錯覚させる。だから危険なのである。
子どもがたくさん死んでいた時代は、人々の想像する死者の世界は多くの子どもで溢れていたはずである。そのため、地蔵をつくって、その子どもが祟ってこちらに来たり、逆に我々が彼らを忘れて成仏を願わなくなったりすることを防いでいたのではなかろうか?それは、おおくの死者と共存することであった。日本では墓地が農家ごとにあったりと、ものすごく分散して存在していたことも手伝っていたに違いない。
コロナ対策のあれこれをみていると、われわれの持つ所謂「正常化バイアス」には、再び、死者とともに暮らす過去に戻りたくないみたいな感情があるのではないかと思うこともある。PCR検査を大規模でおこなって、患者と非患者が斑に社会に存在するような状況が恐ろしいというのはあるであろう。我々の精神は、ある意味で、その程度には脆弱なのである。
ひるまは、そこに、ちょうや、みつばちが集まっていて、にぎやかでありましたけれど、いまは、葉かげでたのしいゆめをみながらやすんでいるとみえて、まったくしずかでした。ただ水のように月の青白い光が流れていました。あちらのかきねには、白い野ばらの花が、こんもりとかたまって、雪のように咲いています。
「娘はどこへ行った?」と、おばあさんは、ふいに、立ちどまってふりむきました。あとからついてきた少女は、いつのまにか、どこへすがたを消したものか、足音もなく見えなくなってしまいました。
「みんなおやすみ、どれ私もねよう。」と、おばあさんはいって、家の中へはいって行きました。
ほんとうに、いい月夜でした。
――小川未明「月夜とめがね」