★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

ゆかしくし給ふなるものをたてまつらむ――物語・ロココ・民芸

2020-07-10 21:15:52 | 文学


いと口惜しく思ひ嘆かるるに、をばなる人の田舎より上りたる所に渡いたれば、「いとうつくしう生ひなりにけり。」など、あはれがり、めづらしがりて、帰るに、「何をかたてまつらむ。まめまめしき物は、まさなかりなむ。ゆかしくし給ふなるものをたてまつらむ。」とて、源氏の五十余巻、櫃に入りながら、在中将、とほぎみ、せり河、しらら、あさうづなどいふ物語ども、一袋とり入れて、得て帰る心地のうれしさぞいみじきや。

コロナ禍におけるインテリの様子を見ていて思うんだが、――普段役に立つこと至上主義を掲げているみたいな連中は、いざという時には役に立つことをしない傾向にある。役にたつことをしたいならさっさと無償でもやればよろしいので、結局予算獲得とか自慢のたねとかが目的のくせしてかっこをつけているだけなのである。だいたい、本当に人々の欲しているのは娯楽的なものをこね回して遊ぶことである。スマートフォンもパソコンもなにかよかったかと言えば、コンテンツを自由に見て遊べるからであって、仕事の効率が上がるとか便利だからとかいうゴミクズみたいな理由ではなかった。このおばさんはよく分かっている。悲しくてしょうがない娘は、いまなら下手をすると何の役に立たんケア会話とかアンケートとかをやらされるが、――彼女が欲しいのは物語であったのをちゃんと分かっているおばさんから、「源氏物語」をはじめとするさまざまな物語をもらった。こんなに甘やかしてよいであろうかと思うが……。おばさんも「いとうつくしう生ひなりにけり」と娘の容姿に騙されて――というか、孝標の娘は、自分がかわいいので物語をもらったみたいな、精神的強欲をみせてつけている。

それはともかく、世の為政者(お金配り係)がいわなければならないのは、「何をかたてまつらむ。まめまめしき物は、まさなかりなむ。ゆかしくし給ふなるものをたてまつらむ。」――である。

「ゆかしくし給ふ」ものが源氏物語になったりお金になったりするわけであるが、――勢い余って、我々はなにか余分なことを欲したりすることがある。ゾンバルトをこの前読み直したが、この余分なものへの欲望がどうして発生するのかはなんだかよく分からない。

そして、我が国では、根こそぎ生活を奪われる災害にたびたび襲われているからなのかなんなのか知らないが、必要最小限に欲望を抑制する癖がついており、余分なものに対して命や安全を理由に攻撃すること屡々である。

わたくしは、マイナー文学を研究したいとか思っているくせに、好きな絵画とかは、ゾンバルトの本の表紙にもなってた――フラゴナールなどのロココ趣味なのだ。わたくしは、ベルリオーズの「幻想交響曲」なんかもある意味でロココ的なものであると思うのである。わたくしは、民芸的なものを余り実感出来ないのだ。柳宗悦の趣味こそが民芸なのである。『手仕事の日本』で描かれる木曽漆器の部分は非常に平板で説明的だが、結局、

木曽と言えばその渓谷の都福島で、漆器を作り出します。


という一文のみが美的である。戦時下の木曽福島が「渓谷の都」にみえるその感性、――確かに、小さい貧しいモノを愛でる感性だと思う。藤村の「木曽はすべて山の中である」というのは、日本の比喩としての木曽を示すにせよ、山の中がでかく見えるので、つまりは世界の大きさを以て木曽もある程度大きく見えるというレトリックなのであった。