粟津にとどまりて、師走の二日、京に入る。暗く行き着くべくと、申の時ばかりに立ちて行けば、関近くなりて、山づらにかりそめなるきりかけといふものしたる上より、丈六の仏の、いまだ荒造りにおはするが、顔ばかり見やられたり。あはれに人はなれて、いづこともなくておはする仏かなとうち見やりて過ぎぬ。
仏というのは、群れているようで群れておらぬ。結構ソーシャルディスタンスを保って置かれているものであって、この仏みたいに山の中腹にただひとり置かれているものも数知れず、仏像は孤独を癒やすというか、仏像自体も孤独だからそうなるのである。キリストの磔刑像だって基本的にそういうもんだと思う。ミケランジェロの「最後の審判」なんて、ほぼ全員コロナに罹っていると確信できる距離であって、「群衆」の概念を発明した西洋というのは、まあそういうことだと言わざるを得ない。ミケランジェロのそれを観に行ったときには、アメリカ人を中心にホールいっぱいに人が群れていて騒いでいた。神に仕える人が、「
うるせえだまれ、
この愚民共が」と叫んでも一向におさまらず、禁止されているカメラを取り出す輩続出。いやはや、このために「最後の審判」があったのだと言わざるをえない。
マーラーの交響曲を聴いていると、天国に行くのがかなり孤独な作業だと思われるんだが、この人は孤高に思い上がっていたのでそうなるのであって、下々の者にとっては、もっと「みんなで渡ろう三途の川を、ついでに最後の審判もみんなで免罪」みたいな感じであろう。
孝標の娘さんは、あいかわらず仏像に反応して、「あはれ」とか言うているのがかわいい。極楽行き決定!
恋に必ず、必ず、感応ありて、一念の誠御心に協い、珠運は自が帰依仏の来迎に辱なくも拯いとられて、お辰と共に手を携え肩を駢べ優々と雲の上に行し後には白薔薇香薫じて吉兵衛を初め一村の老幼芽出度とさゞめく声は天鼓を撃つ如く、七蔵がゆがみたる耳を貫けば是も我慢の角を落して黒山の鬼窟を出、発心勇ましく田原と共に左右の御前立となりぬ。
其後光輪美しく白雲に駕て所々に見ゆる者あり。或紳士の拝まれたるは天鵞絨の洋服裳長く着玉いて駄鳥の羽宝冠に鮮なりしに、某貴族の見られしは白襟を召て錦の御帯金色赫奕たりしとかや。夫に引変え破褞袍着て藁草履はき腰に利鎌さしたるを農夫は拝み、阿波縮の浴衣、綿八反の帯、洋銀の簪位の御姿を見しは小商人にて、風寒き北海道にては、鰊の鱗怪しく光るどんざ布子、浪さやぐ佐渡には、色も定かならぬさき織を着て漁師共の眼にあらわれ玉いけるが業平侯爵も程経て踵小さき靴をはき、派手なリボンの飾りまばゆき服を召されたるに値偶せられけるよし。是皆一切経にもなき一体の風流仏、珠運が刻みたると同じ者の千差万別の化身にして少しも相違なければ、拝みし者誰も彼も一代の守本尊となし、信仰篤き時は子孫繁昌家内和睦、御利益疑なく仮令少々御本尊様を恨めしき様に思う事ありとも珠運の如くそれを火上の氷となす者には素より持前の仏性を出し玉いて愛護の御誓願空しからず、若又過ってマホメット宗モルモン宗なぞの木偶土像などに近づく時は現当二世の御罰あらたかにして光輪を火輪となし一家をも魂魂をも焼滅し玉うとかや。あなかしこ穴賢。
――幸田露伴「風流仏」
昔は、いい結末だと思ったが、いまはそうでもない。