姉おととの中につとまとはれて、をかしがりらうたがるほどに、姉のなやむことあるに、もの騒がしくて、この猫を北面にのみあらせて呼ばねば、かしがましく鳴きののしれども、なほさるにてこそはと思ひてあるに、わづらふ姉おどろきて「いづら、猫は。こち率て来」とあるを、「など」と問へば、「夢にこの猫のかたはらに来て、『おのれは侍従の大納言の御むすめの、かくなりたるなり。さるべき縁のいささかありて、この中の君のすずろにあはれと思ひ出でたまへば、ただしばしここにあるを、このごろ下衆の中にありて、いみじうわびしきこと』といひて、いみじう泣くさまは、あてにをかしげなる人と見えて、うちおどろきたれば、この猫の声にてありつるが、いみじくあはれなるなり」と語りたまふを聞くに、いみじくあはれなり。
姉が病気になった。猫は使用人のいる部屋にほって置いたら、うるさく鳴く。――確かに、猫はほっておくと大変な騒ぎようのことがある。人間もほっておくといきなり攻撃的になるやつがいるが、そんなかんじであろう。戦争もそうだけど、離れているととりあえず何か投げたくなったりするのだ。もっとも、パーソナルスペースの大事さとかいう議論は、人間の欲求を空間的に考えすぎていたようだ。問題は、離れていると、時間意識がおかしくなり、遠くの時間が近くの時間となり、積年の恨みとかでてくることがあるということだ。
コロナで、そうやって人類は、古くからの問題を「いまここ」の勢いで急激に持ち出す。――おそらく、アメリカを起点に起こった黒人のプロテストや、植民主義の偶像破壊などもそれにちがいない。必然なのだが、それは空間が広がったことによる時間の縮減の効果なのであろう。
――と偉そうに妄想してみたのであるが、身近にもそういう類いのことが起きるので、かかる事を空想してみたのである。本当は、国家機能の本源的回復によって、みんな歴史に目覚めただけなのであろうが……。今日は、近代の悪所と芸能界の関係について授業を行ったが、これもそういうことだ。
姉が目を覚まし「猫をつれていらっしゃい」と言う。なぜかというと、猫が夢に出てきて、自分は藤原行成の姫君の生まれ変わりだといったというのである。孝標の娘が姫君を懐かしがっているので、ここにきたのだという。
猫はねむいところを、たくさんの人々になでられ、毛をひっぱられ、つかまれるので大むくれ。箱の中をあばれまわって、ふーっ、きゃあーっ、と、うなる。
それがまた客の人気にかなった。まだ順番のこない客たちは、箱をのぞきこんで、猫の声はすれど、その姿がさっぱり見えないのに興味をつのらせる。
これは魔術ではないかと、箱の中を隅から隅までさぐるお客も多かった。そういう人は、透明猫のために手をひっかかれたり、ごていねいに指の先をかみつかれたりして、おどろいたり、感心したりで引きさがるのであった。
――海野十三「透明猫」
わたくしは、いない姫の生まれ変わりの猫よりも、こういういない猫のほうが好きだ。