★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

風猷と風

2020-07-29 23:34:19 | 文学


歩と驟と、おのもおのも異に、文と質と同じからずといへども、古を稽へて風猷を既に頽れたるに繩したまひ、今を照して典教を絶えなむとするに補ひたまはずといふこと無かりき。


世の中が乱れると、「古を稽へて風猷を既に頽れたるに繩したま」ふ人を待ち望んでしまうのは昔からそうだったようである。なんだろう、古がよいとは限らないのは当たり前で、古の何かを道徳神化しているというかんじである。そこに天皇が代入されている。いまだって、何かあれば、倫理的なことを口走る学者は多いし、ある現象学者なんか、「倫理にはまったく興味がない」と言っていたくせに、最近は現象学の底に倫理があったとか言っていた。

歴史を振り返ることがこんなことにならないようにしなければならないのであるが、なかなか難しいことだ。まずは、現在の自分の姿を複雑感情なくみつめる事が必要であるように思われる。

無常の風は日本の地貌ではどのあたりから吹いて来る風かと考へると、もうここからは独断にならざるを得なくなる。とにかく乾燥した風だ。乾燥した風は窒素の加減で霊魂が放散し易いものらしい。塩分を含んだ風の中では人はさう容易く死ぬものではないと見える。それに乾燥した風は太陽のコロナと多大の関係を持つてゐる。コロナがまた太陽の黒点と著しい関係を持つてゐる。私は社会主義の布衍される地域がまた此の風の密度によつて非常に相違して行くものといつも思ふ。此の主義は風のやうに地貌とまた密接な関係を持つてゐる。地貌の運動作用、特に準平原の輪廻作用を思ふと私は社会主義者にならざるを得なくなる。

――横光利一「無常の風」


昔は、この文章なんか馬鹿にしていたが、今考えてみると、かれもまた、日本の歴史において風猷よりも、そこに流れるホンモノの「風」みたいなものをみようとしていたにちがいない。