★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

文学を失うとクズが代わりを務める

2020-10-09 23:48:09 | 文学


二日。なほ大湊に泊まれり。講師、物、酒おこせたり。
三日。同じところなり。もし、風波の、しばしと惜しむ心やあらむ。心もとなし。
四日。風吹けば、え出で立たず。まさつら、酒、よき物奉れり。この、かうやうに物持て来る人に、なほしもえあらで、いささけわざせさす。物もなし。にぎははしきやうなれど、負くる心地す。
五日。風波やまねば、なほ同じところにあり。人々、絶えず訪ひに来。
六日。昨日のごとし。


日記といっても防備録みたいな側面があるから、こんな時もある。六日なんか、正直にいえば、なんも書くことがなく、本当は五日と同じだったかすら怪しい。

総合的・俯瞰的にみて、日記というものは不要不急のものであって、どうかんがえてみてもそうじゃないでしょうか。

今度の首相はアウトサイダー的な側面を持っているから一瞬期待したことはたしかだが、前のひとみたいに、血と理念に関わるルサンチマンすらなく、ひとことでいえば、いじめが多いクラスでたまたまいろいろな都合でパリシ番長みたいな人間が委員長になってしまったパターンだろう。しかし、これは案外我々のまわりでもあるのではなかろうか。彼はそんな風潮に乗っただけのはなしで、彼自身に責任はあるが、文学のレベルだといいポジションに位置する何者かだ。

前の首相のまねをする人達は、ポエム野郎みたいな、――朦朧とした夢を語る側面があったが、今度は、ただひたすら明確な国策遂行という全員アイヒマン的な何者かになる可能性があり、――いずれにせよ、生きる目的を失っていることに気付いていない人達である。

わたくしがこの業界に住むようになってもう何十年もたつのだが、ひたすらずっと、政治や学問を嫌う人間達からのマウンティングや厭がらせをうけてきたのだ。金をちらつかせた交渉の仕方には目に余るものがあり、いずれいろいろとバラして死んで行く人があらわれるかもしれない(そういう根性がない人が出世するからむりかも)が、文学や思想だけがそういうものを表現出来る。

 私は、いま、多少、君をごまかしている。他なし、君を死なせたくないからだ。君、たのむ、死んではならぬ。自ら称して、盲目的愛情。君が死ねば、君の空席が、いつまでも私の傍に在るだろう。君が生前、腰かけたままにやわらかく窪みを持ったクッションが、いつまでも、私の傍に残るだろう。この人影のない冷い椅子は、永遠に、君の椅子として、空席のままに存続する。神も、また、この空席をふさいで呉れることができないのである。ああ、私の愛情は、私の盲目的な虫けらの愛情は、なんということだ、そっくり我執の形である。

――太宰治「思索の敗北」


そういえば、太宰は、最近問題になっていたスギなんとかとかいうひとの「女性はいくらでも嘘をつく」という発言と似たようなことをネタに書いている。

 圭吾は、すぐに署長の証明書を持って、青森に出かけ、何事も無く勤務して終戦になってすぐ帰宅し、いまはまた夫婦仲良さそうに暮していますが、私は、あの嫁には呆れてしまいましたから、めったに圭吾の家へはまいりません。よくまあ、しかし、あんなに洒唖々々と落ちついて嘘をつけたものです。女が、あんなに平気で嘘をつく間は、日本はだめだと思いますが、どうでしょうか。」
「それは、女は、日本ばかりでなく、世界中どこでも同じ事でしょう。しかし、」と私は、頗る軽薄な感想を口走った。


――太宰治「嘘」


要するに、日本は、太宰の描くような案外通俗的な文学レベル、さえ失ってしまったのだ。だから、平気でそれを公の場で言ったり行ってしまう。文学は、人間の姿を内面に押し込め、公のものと分離する役割を担っていたのである。文学を失うとクズが代わりを務める。