いたづらに日を経れば、人々、海を眺めつつぞある。女の童のいへる、
立てばたつゐればまたゐる吹く風と波とは思ふどちにやあるらむ
いふかひなき者のいへるには、いと似つかはし。
立つと立つ、おさまればおさまる 風と波はなかのよいお友達に違いないわ
読んだ者は「取るに足らない」子供なのかも知れないが、なかなかよいではないか。紀貫之もこの歌を読んだ者を馬鹿にしているのではなくて、「土佐日記」は、歌を詠もうとして読もうとする下品な者の歌、子供の歌などをいちいち書いている。明らかに、歌を詠む人間の方に興味があるに違いない。
風は、街の方へも吹いて来ました。それはたいそう面白そうでした。教会の十字塔を吹いたり、煙突の口で鳴ったり、街の角を廻るとき蜻蛉返りをしたりする様子は、とても面白そうで、恰度子供達が「鬼ごっこするもん寄っといで」と言うように、「ダンスをするもん寄っといで」といいながら、風の遊仲間を集めるのでした。
風が面白そうな歌をうたいながら、ダンスをして躍廻るので、干物台のエプロンや、子供の着物もダンスをはじめます。すると木の葉も、枝の端で踊りだす。街に落ちていた煙草の吸殻も、紙屑も空に舞上って踊るのでした。
――竹久夢二「風」
わたくしは、大正時代に生じたこの童話の世界があまり好きではないが、この伝統は侮りがたく、現在にまで根を張っている。JPOPとか若者のポエムなどもそんなものの変形である要素があるからだ。思うに、源氏物語や和泉式部の伝統よりも、我々にあるのは土佐日記みたいなものかも知れない。そもそもわたくしは、女である私が……、とか、とりかえばや、のような発想をあまり好きじゃないのだ。他人のふりなんか本当にできるか、と思うからである。