ある人、弓射ることを習ふに、諸矢をたばさみて的に向かふ。師のいはく、「初心の人、二つの矢を持つことなかれ。のちの矢を頼みて、初めの矢になほざりの心あり。毎度ただ得失なく、この一矢に定むべしと思へ。」と言ふ。わづかに二つの矢、師の前にて一つをおろかにせんと思はんや。懈怠の心、自ら知らずといへども、師これを知る。この戒め、万事にわたるべし。道を学する人、夕べには朝あらんことを思ひ、朝には夕べあらんことを思ひて、重ねてねんごろに修せんことを期す。いはんや一刹那のうちにおいて、懈怠の心あることを知らんや。なんぞ、ただ今の一念において、ただちにすることのはなはだかたき。
「懈怠の心、自ら知らずといへども、師これを知る」、なるほど、兼好法師は、生徒の主体性などという幻想を批判しておるのね――とか言っている場合ではない。我々にとって、師が師であることこそ実現が難しいのである。もっとも、師は、上のような全能性を行使してこそ師であるから、現象としてそういうものが確立し始めないといけないと考える人もいるであろう。かくして、クソ教師でも尊敬せよみたいなことが説かれたりもするわけである。
もっとも懈怠の心とは、仏教的に――たんにさぼっているのではなく、悪の積極的公使だと考えた方がよいのだ。だから、教師は悪を抑圧するつもりでやればよいことになる。実際、日本がかくも落ちぶれた理由のひとつに、懈怠の心を放置してきたというのがある。
今日、授業で少し「ロッキー」(1976)を扱ったのだが、――ロッキーがなぜ無謀なアポロとの対戦に向かうかと言えば、最初は自認の問題であった。恋人のエイドリアンに向かって喋っているのだが、彼女には背を向けて自分に向かっている。
If I can go that distance, you see, and that bell rings and I'm still standin', I'm gonna know for the first time in my life, see, that I weren't just another bum from the neighborhood.
自己肯定といい、共同体といい、何を言っても我々が空っぽな理由が I'm gonna know for the first time in my life, see, that I weren't just another bum from the neighborhood のような感情を、本物のごろつきに奪われたからである。懈怠とかいう問題ではない。