★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

ビックフライオオタニサン

2021-07-10 23:53:48 | 文学


すべて男をば、女に笑はれぬやうにおほしたつべしとぞ。「浄土寺前関白殿は、幼くて、安喜門院のよく教へ参らせさせ給ひける故に、御詞などのよきぞ」と、人の仰せられけるとかや。山階左大臣殿は、「あやしの下女の見奉るも、いとはづかしく、心づかひせらるる」とこそ仰せられけれ。女のなき世なりせば、衣文も冠も、いかにもあれ、ひきつくろふべき人も侍らじ。

そうかもしれないが、異性の存在があってもあんまり身なりを気にしない人もいる。わたくしも長年そんな感じで、周りから心配されていたような気がする。これは文化の問題もあったのだ。わたくしはまだ、身なりがだらしない人間がヒーローだった時代の空気に侵されていたのだとおもう。大学時代の後半ぐらいから、周りに妙におしゃれな男が増えてきたなと思い始めた。下手すると、わたくしの学年まではどてらを着て共通科目を受けていたやつがいたからである。

それはともかく、いまは、身なりをきちんとできない脳のタイプがあることもなんとなく報告されるようになってきた。この世は実に様々だ。

――と思っていると、だいたい大谷★平みたいな男が現れて多くの女心などをかっさらってしまう。わたくしなんかも、大谷のホームランを観ていたら、女心が芽生えてきたくらいだ。わたくしは、自分より足の長い男を信用していないが、大谷は別枠である。まさにこの「別枠」とかいうのが恋心というやつである。

もっとも、テレビで清原和博氏が確か言っていたが、あの甘いマスクには闘争心が湧かない、というのも事実である。あのアッパースイングによるホームランは、山田ではなく岩鬼のものであって、岩鬼はああいう顔をしていなければならないというのが、昭和の逆説精神である。それが崩壊したのだ。

逆説がわからない世代が攻めてきたという感じが、いまはわたくしたち大学に巣くう人間なんかは思ってるのだが、――たぶん、こういう空気が大谷の誕生にも寄与しているはずである。物事にはいろいろな作用面があるのであった。

そういえば、教員★許◆新制度がどうやら廃止になるようである。この制度で発生した様々なゴタゴタや怨恨については、様々な側面から多くの研究がなされるべきだと思う。一番の被害者はむろん現役の教員だ。まったくとんでもないことに巻き込まれたものだ。が、世の中の全てのことに言えるように、この制度によって様々な出来事が生起し様々なことを浮かび上がらせたことも確かである。今度の廃止はいいことかも知れないが、我々は過ちを修正するときにもっと大きい過ちを犯していることがある。とにかく我々の愚かさをもっと深く深刻なものとして捉えておくことが必要だと思う。この制度に関わったわたくしの感想は、とても第一次安倍政権が馬鹿だったのだと要約できるものではない。

年々、わたくしが教室で眼の前にするのが、人間ではなく何かの観念であるように感じられてきたことだけ述べておく。観念と化した人間は非難は出来るが考察が出来ない。その観念がイデオロギーだったらまだましだが、大概はお題目である。我々はリテラシー能力を要求されるかたちで、そういったお題目による非難をしあうロボットになりつつある。考察とは内省であるが、それができないのは、内心の反発を調教することに長けた人間、つまり奴隷的である事態に他ならぬ。

組織や業界が持続できるかは、様々ないやがらせで殺された魂を保つことができるかが問題だが、その魂は様々な知的な研鑽によってしか保てない。疲労と絶望で勉強が出来なくなってしまうことが一番まずいのである。もともと纏っていた知的なオーラがそこで消えてしまい、じっくりものを考えるタイプが寄りつかなくなる。外部からの攻撃を意識しているうちに、自分たちの知的膂力が急降下してしまい、逆に外部からの改革と称して手を突っ込まれる理由をつくってしまうのである。これは大学を含めた教育業界の課題である。

我々の造った内的な制度、為政者が自分の過ちを単に認めるわけがない。大学という外部(ですらもはやないが)なしにもっと観念的に気持ちのいい統制に移行するに違いない。