人の心すなほならねば、偽りなきにしもあらず。されども、おのづから、正直の人、などかなからん。己れすなほならねど、人の賢を見て羨むは、尋常なり。至りて愚かなる人は、たまたま賢なる人を見て、これを憎む。「大きなる利を得んがために、少しきの利を受けず、偽り飾りて名を立てんとす」と謗る。己れが心に違へるによりてこの嘲りをなすにて知りぬ、この人は、下愚の性移るべからず、偽りて小利をも辞すべからず、仮りにも賢を学ぶべからず。狂人の真似とて大路を走らば、即ち狂人なり。悪人の真似とて人を殺さば、悪人なり。驥を学ぶは驥の類ひ、舜を学ぶは舜の徒なり。偽りても賢を学ばんを、賢といふべし。
正直な人を嫉妬するのは普通だが、憎む人がありとても愚かなことだ。これは、大概の大人が知っている真理であるが、「大きなる利を得んがために、少しきの利を受けず、偽り飾りて名を立てんとす」と思っているかどうかは分からない。ここまで理屈っぽく考えているのであれば、まだ見込みがあるが、ほとんどの下愚の輩は考えていないと思うのだ。もっと他の理由があるのだ。正直な人であるから憎んでいるのでさえないのである。兼好法師は、ここで一貫した論理を造ろうとして、下愚の具体性を取り逃がしているのではないかと思うのだが、――問題は、正直さというのは、自分に対する意識のことではなく、自分が何に反映されてあるかということに対する素直さのことなのである。自分に拘って居るから、本心ということにこだわってしまい、利を逃す。そんなことをするより、素直に賢人を真似た方が早いのだ、兼好法師のいいたいのは、そういうことであろう。
しかし、それはそうなのだが、こういう素直さにも様々な種類があるとおもうのである。そして、そのなかには、ほんとうに「大きなる利」を狙っているような輩も混じってはいるのである。下愚の心も複雑だが、一見すると賢人みたいな人間の心も複雑である。
成程世人は云うかも知れない。「前人の跡を見るが好い。あそこに君たちの手本がある」と。しかし百の游泳者や千のランナアを眺めたにしろ、忽ち游泳を覚えたり、ランニングに通じたりするものではない。のみならずその游泳者は悉く水を飲んでおり、その又ランナアは一人残らず競技場の土にまみれている。見給え、世界の名選手さへ大抵は得意の微笑のかげに渋面を隠しているではないか?
人生は狂人の主催に成ったオリムピック大会に似たものである。我我は人生と闘いながら、人生と闘うことを学ばねばならぬ。こう云うゲエムの莫迦莫迦しさに憤慨を禁じ得ないものはさっさと埒外に歩み去るが好い。自殺も亦確かに一便法である。しかし人生の競技場に踏み止まりたいと思うものは創痍を恐れずに闘わなければならぬ。
――芥川龍之介「侏儒の言葉」
しかしまだ芥川龍之介は甘かった。ホントに狂人がオリンピックを行う羽目になるとは思っていなかっただろうからである。