花は盛りに、月はくまなきをのみ見るものかは。雨に向かひて月を恋ひ、たれこめて春の行方知らぬも、なほあはれに情け深し。咲きぬべきほどの梢、散りしをれたる庭などこそ、見どころ多けれ。歌の詞書にも、「花見にまかれりけるに、早く散り過ぎにければ。」とも、「さはることありて、まからで。」なども書けるは、「花を見て。」と言へるに劣れることかは。花の散り、月の傾くを慕ふならひはさることなれど、ことにかたくななる人ぞ、「この枝、かの枝、散りにけり。今は見どころなし。」などは言ふめる。
兼好法師が鋭いと思うのは、満開桜や満月などばかりありがたがる感性が、「花の散り、月の傾くを慕ふならひ」から逆説的にでてくると主張していることではなかろうか。
100点しかみとめないために、100点でない状態になったときに、100点にばかりこだわることになる。日本の四季をありがたがる感性も、案外、同じようなもので、春とか秋とかのイメージを典型的に決めてかかっていて、その変化の苛々した動揺する気象をむしろわれわれは嫌っている。
だが、あくる日、午餐のあとで、その離れの庭に出ると、昨日にもまして花の色づいたのに心惹かれて、またその木に登つて、二握り三握りつかみ取つて、口から喉へ通した。味がどうであらうと、綺麗なものを腹に入れたといふ気持は快くなつた。家の者に気づかれないうちにどれほどのものが喰はれるかと、人知れぬ異様なたのしみになつた。
――正宗白鳥「花より団子」
確かに、変化に関する我々の無神経を1度たたき壊すには、不変とも言うべき食欲に実を預けてみるのも一興である。近代の文士たちは、やたら食べたり飲んだりする人々が多かった。