★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

死を恐れざるが故なり

2021-07-07 23:58:01 | 文学


「牛を売る者あり。買ふ人、明日その値をやりて、牛を取らんといふ。夜の間に、牛死ぬ。買はんとする人に利あり、売らんとする人に損あり」と語る人あり。これを聞きて、かたへなる者の言はく、「牛の主、誠に損ありといへども、又大きなる利あり。その故は生あるもの、死の近き事は知らざる事、牛、既にしかなり。人、又おなじ。はからざるに牛は死し、はからざるに主は存せり。一日の命、万金よりも重し。牛の値、鵝毛よりも軽し。万金を得て一銭を失はん人、損ありといふべからず」と言ふに、皆人嘲りて、「その理は牛の主に限るべからず」と言ふ。又言はく、「されば、人、死を憎まば、生を愛すべし。存命の喜び、日々に楽しまざらんや。愚かなる人、この楽しびを忘れて、いたづかはしく外の楽しびを求め、この財を忘れて、危ふく他の財をむさぼるには、志、満つる事なし。生ける間生を楽しまずして、死に臨みて死を恐れば、この理あるべからず。人皆生を楽しまざるは、死を恐れざるが故なり。死を恐れざるにはあらず、死の近き事を忘るるなり。もし又、生死の相にあづからずといはば、実の理を得たりといふべし」と言ふに、人いよいよ嘲る。

なんで最後に「生死の相にあづからずといはば、実の理を得たりといふべし」と日和るのか分からない。いやわかるんだが、なぜそうなるかちゃんと説明した方がよいのではなかろうか、そこが大事なのに。――いずれにせよ、こういうもっともらしく見える哲学をさしあたり馬鹿にしてしまう庶民も正しいように思うのである。なぜなら、この「かたへなる者」が言っていることを、死を恐れよではなく、メメント・モリ、などと多くの人が自覚する世の中がどれだけ陰惨なことになるかといえば、現代を見ればわかるからである。いまどきの一番のメメント・モリ的活動は何とか「活」となって現れている。受験活動、就職活動、婚活、終活、すべてが結果というある種の「死を思う」的精神を前提にした活動である。兼好法師のいう「損得」の支配する生き方はそれにあたる。

だからこの「かたへなる者」は、「メメント・モリ(死を思え)」ではなく「死を恐れよ」と言ったのである。というわけで、明日はたぶん死なないと思っている現代日本人は、損得野郎(宮台真司)になるわけである。もっとも、結果が作品となっているようにみえる物書きの場合はどうなのであろう。

第一、小説が書けなくなったと云いながら、当面のスタコラサッちゃんについて、一度も作品を書いていない。作家に作品を書かせないような女は、つまらない女にきまっている。とるにも足らぬ女であったのだろう。とるに足る女なら、太宰は、その女を書くために、尚、生きる筈であり、小説が書けなくなったとは云わなかった筈である。どうしても書く気にならない人間のタイプがあるものだ。そのくせ、そんな女にまで、惚れたり、惚れた気持になったりするから、バカバカしい。特に太宰はそういう点ではバカバカしく、惚れ方、女の選び方、てんで体をなしておらないのである。
 それでいゝではないか。惚れ方が体をなしていなかろうと、ジコーサマに入門しようと、玉川上水へとびこもうと、スタコラサッちゃんが、自分と太宰の写真を飾って死に先立って敬々しく礼拝しようと、どんなにバカバカしくても、いゝではないか。
 どんな仕事をしたか、芸道の人間は、それだけである。吹きすさぶ胸の嵐に、花は狂い、死に方は偽られ、死に方に仮面をかぶり、珍妙、体をなさなくとも、その生前の作品だけは偽ることはできなかった筈である。


――坂口安吾「太宰治情死考」


たしかにそうであり、――そういえば太宰というのは、上の心中相手だけでなく案外自分の惚れた女について書かない書き手であったのかも知れなかった。このまえ授業で「カチカチ山」をやったときに、「惚れたが悪いか」と言い放つ狸を扱ってみせる太宰が、本当に「惚れる」人間であったのかと学生に問いかけようとしてその言葉を飲み込んだ。直接太宰に会っている坂口安吾には何か確信があったのかも知れないが、作品しか目の前にしていない我々はそんなことを云々する資格があるかどうかわからないからである。