高名の木登りといひし男、人を掟てて、高き木に登せて梢を切らせしに、いと危ふく見えしほどは言ふこともなくて、降るるときに、軒たけばかりになりて、「過ちすな。心して降りよ。」と言葉をかけ侍りしを、「かばかりになりては、飛び降るとも降りなん。いかにかく言ふぞ。」と申し侍りしかば、「そのことに候ふ。目くるめき、枝危ふきほどは、おのれが恐れ侍れば、申さず。過ちは、やすき所になりて、必ず仕ることに候ふ。」と言ふ。あやしき下﨟なれども、聖人の戒めにかなへり。鞠も、難きところを蹴出だしてのち、やすく思へば、必ず落つと侍るやらん。
そもそも軒の高さというのはまだまだ十分に危ない。問題を一般化したいのなら、あと十センチみたいなところで気をつけろと言ったとかにした方がよくはないであろうか。最近の「ミスしました。失礼しました」という名人でも凡人ですらない日本国民に対してはもっと厳しい話が必要なのである。「あやしき下﨟」が聖人なみなのは当然である。未来まで責任を負わせられている生き方をせざるを得ないからである。これに対して、兼好法師の周りにいたような他人に指示をよこせと強要してばかりいる役人など、つめが甘い仕事ばかりしているに決まっている。なぜといえば、そこまで普通指示がないからだ。指示がない部分は自分のミスとはみなさないので「失礼しました」で済ませようとする。
こう考えてみると、軒の高さという中途半端のところで敢えて注意をするということは、――ある意味で職業人に対する嫌みなのではなかろうか。
そのあとで蹴鞠で喩えているところもふざけている。仕事そのもので説明しても馬鹿には分からないから、サッカーでいうとね、という説明なのではなかろうか?
染八の肩から、こう蹴鞠の匊のような物体が、宙へ飛びあがり、それを追って、深紅の布が一筋、ノシ上がった。切り口から吹き上がった血であった。染八の首級は、碇綱のように下がっている撥ね釣瓶の縄に添い、落ちて来たが、地面へ届かない以前に消えてしまった。年月と腐蝕とのためにボロボロになっている井桁を通し、井戸の中へ落ちたのであった。
「タ、誰か、来てくれーッ」
――国枝史郎「血曼陀羅紙帳武士」
確かに、こういう鞠は気をつけなくてはならない。