但し世間の疑といゐ自心の疑と申しいかでか天扶け給わざるらん、諸天等の守護神は仏前の御誓言あり法華経の行者には・さるになりとも法華経の行者とがうして早早に仏前の御誓言を・とげんとこそをぼすべきに其の義なきは我が身・法華経の行者にあらざるか、此の疑は此の書の肝心・一期の大事なれば処処にこれをかく上疑を強くして答をかまうべし。
Eli, Eli, Lema Sabachthani? とは誰でも言いたくなることはあるであろうが、本当にまずいときには事態の打開のため神よりもそこらの道具や人間を使うものである。日蓮もそういうときにお経を使ったのだ。これは日蓮が思想を道具として使ったからダメだというのではなく、むしろ思想とは道具だということに気付いたことに日蓮の慧眼がある。
例えば書類の誤りが多い組織は会議も民主的手続きもいいかげんであるのが普通であるが、なぜだめかというと、書類というものが思想的な道具であることを軽視しているからである。こういうものを手放した組織は、かならずいじめや同調圧力に頼るようになる。ボスのお気持ちに忖度する輩が増えるもんだから、ボスはボスでお気持ちを強く表明する必要がでてくるのである。
実態をよくみるべきで、最近は大学教員の正義の味方ップりが憂き世離れっぷりとして批判されることもますます多くなってきたが、大学の組織が上のような状態になると、まさに正義の味方であるはずが、実態は盛儀の味方もどきになっているのであった。「労働者」なんてかっこいいものじゃない。
以前授業で、「ある時代というものを考える場合、オウム真理教がSDGsをしているようなような状態を考えなければならぬ」という暴言を吐いてしまったことがあるが、間違えた。「ある時代」ではなく、「ある組織」であった。我々はそんな場合、案外遊びのつもりだったみたいな、感覚に陥っている可能性がある。部屋に引きこもって何かに熱中する体の遊びではない。閉じ込められているが故に外に出られなくて暇だから遊んでしまうあれである。
柳田國男の大正十一年ごろの日記を読んでたら、毎日トランプやって遊んでいる。よくみたら、彼は船上にいたのであった。ゲームやって遊んでいる人は現代社会の人生という船に乗っているのであろう。いや、乗ってる訳ないだろう。さっさと勉強するほかはあるまい。すべては完全なる勉強不足からはじまっている。暇を踏みつぶして根性で勉強である。