柳田國男が中野重治との対談の中で、本居宣長がいちばんくわしいのは中世だと言い切っていたが、こういう思い切りが我々にはなくなっているとは思うのだ。しかし、これは雑なのではない。エネルギーの迸りなのである。文章もちょっと我が儘だけどしゃべりもけっこう我が儘で、弟子の折口を困らせたりして?面倒くさい師匠である。中野重治をこんなに恐縮させているのは彼ぐらいではないだろうか。
柳田が言ってるように、農民の間にあった、夫婦の間では「行かんせ」、母親には「行かっしゃれ」といった使い分けがなくなって、目上はすべて尊敬語だみたいなのがまずいのだ。人間関係が以前よりも全て上と下みたいな関係に還元され、それが厭なら完全に平等になってないと心理的にきついという地獄になってしまった。
出生率の低下と家の機能の低下?について、いずれぼこんと凹になってしまう世代の出現によって困ったことになるだろうという予言も見事に当たっている。共産党の評価も的確であるきがする。
しかし、この明晰でエネルギッシュな知性は、子規の運動は俳句というよりむしろ風景の見方の革新に過ぎず、短歌も俳句も不自由だ、地を這っていると言い放つところがある。折口の気分は下のような具合であったに違いない。折口も柳田も、イメージよりもものすごく未来志向な人間であり、新たな表現に興味があったのだが、進みゃいいというものでもなく。
人も 馬も 道ゆきつかれ死にゝけり。旅寝かさなるほどのかそけさ