★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

将非魔作仏

2022-06-17 23:29:30 | 思想


小乗経と諸大乗経と一分の相違あるゆへに或は十方に仏現じ給ひ或は十方より大菩薩をつかはし或は十方世界にも此の経をとくよしをしめし或は十方より諸仏あつまり給う或は釈尊舌を三千にをほひ或は諸仏の舌をいだすよしをとかせ給う、此ひとえに諸小乗経の十方世界唯有一仏ととかせ給いしをもひをやぶるなるべし、法華経のごとくに先後の諸大乗経と相違出来して舎利弗等の諸の声聞大菩薩人天等に将非魔作仏とをもはれさせ給う大事にはあらず、而るを華厳法相三論真言念仏等の翳眼の輩彼彼の経経と法華経とは同じとうちをもへるはつたなき眼なるべし。

キリストにもついに発進しようとする段階において、悪魔の囁きなるものが出現したのであるが、わたしは子どもの頃からもっと早い段階でなぜ悪魔は来ないのかと思っていたのである。しかし、歳をとってくるとその意味がなんとなく分かる。確かに、調子がいいときにきちんと悪魔が来て点検が行われる人間こそが大物なのである。普通は、来てくれないから、そのまま発進して墜落する。

日蓮は、信者たちが「天魔が仏と変じてるのじゃないか」と疑ったことなど、小乗の「十万世界には釈尊ただ一仏」という考えを打ち破るために行われた法華経の最終段階での登場に比べれば大したことはなかったと言っていると思うが、実際、大したことではある。日蓮自身の証明がそれである。信者たちの迷走がなければ、日蓮は法華経の絶対的優位を示すことはできないし、戦う覚悟を決めることは出来ない。

世の中、自己肯定的な自己生成など、かように、ありえないと思われる。

私の印象だと、三島由紀夫の日本古典の扱い方は案外ごつごつしていてつぎはぎ的な不器用さを感じるときがあるけれども、芥川とか太宰がなめらかな扱い方をしているのに対するアンチテーゼかもしれない。三島からするとそれは古典の一側面の命を奪うように思われたに違いないのである。近代の天才が古典を殺す、つまり芥川とか太宰が殺している面があるのだ。ちょっと扱い方が上手すぎるところがある。つまり、最終的に、心理的に異物であるところの古典を扱う執筆プロセスが分からないレベルで、作者のものとしての作品が磨き上げられているので、結果的に作者の心理的というか私小説的なところに小説が変成してゆくところがある。その点、三島は坂口安吾とかの不器用さに親近感を覚えていたに違いない。そうでないと、古典を生かすことにはならないからである。

三島の恐れていたのも、我々が古典という異物を失って自己生成してしまうことであったのかもしれない。もっとも、今日も授業で太宰治を読んでいたら、わたしは実に太宰的なものが好きだなと思うのであった。三島は日蓮にはなれないタチであった。