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されば、上の御局に上らせ給ひて、「こなたへ。」とは申させ給はで、我、夜の御殿に入らせ給ひて、泣く泣く申させ給ふ。その日は、入道殿は上の御局に候はせ給ふ。いと久しく出でさせ給はねば、御胸つぶれさせ給ひけるほどに、とばかりありて、戸を押し開けて出でさせ給ひける。御顔は赤み濡れつやめかせ給ひながら、御口はこころよく笑ませ給ひて、「あはや、宣旨下りぬ。」とこそ申させ給ひけれ。いささかのことだに、この世ならず侍るなれば、いはむや、かばかりの御ありさまは、人の、ともかくも思し置かむによらせ給ふべきにもあらねども、いかでかは院をおろかに思ひ申させ給はまし。その中にも、道理すぎてこそは報じ奉り仕うまつらせ給ひしか。御骨をさへこそは懸けさせ給へりしか。
詮子は弟の道長を内覧にするために、自分の子(一条天皇)の閨に乗り込み泣き落とし作戦にでる。ついに部屋に戻ってきて「御顔は赤み濡れつやめかせ給ひながら、御口はこころよく笑ませ給ひて、「あはや、宣旨下りぬ。」」と高らかに道長に伝える。「濡れつやめかせ」というところが恐ろしく生々しいので、源氏物語の女達など可愛らしいのが多すぎという感じさえしてくる。
もっとも、こういう女傑みたいなものは、上の「道理」と同様、表に出てわかる体のものだからそれほど恐ろしくないのかも知れない。よのなか、涼しい顔をして恐ろしい人物達が多いわけである。
ほんとうに人間はいいものかしら。ほんとうに人間はいいものかしら
――新美南吉『手袋を買いに』
わたくしは新美南吉といえば、ごんぎつねよりもこっちが好きで、ごんぎつねの何かを結論づけないと収まりがつかないような大げさな結末より、母狐の上の発言を放り投げた方がよいと思うからだ。韓国映画「殺人の追憶」は、殺人犯を追いかけてきてついに逮捕できずに刑事もやめている主人公が、殺人事件の現場に久しぶりに戻って、最近、殺人犯が現場に戻っていたことを知る、みたいな結末であったが、――さいごのソン・ガンホが観客をにらみつける形相がすごくて、これはよく知られた話だが、モデルになった事件の殺人犯がこの映画を観ていたそうなのである。結局、別件で逮捕されていた人物のなかに彼が居たらしい。強い疑問を投げることは屡々何かを引き起こすものである。みかけの問題解決のそぶりはむしろ、真の何かを覆い隠すものだ。「ごんぎつね」の兵十の行為とごんの死が、その喪としてのシーンを形成することで、問題提起を覆い隠してしまうのとおなじだ。学生に限らずだが、なにか批判とか修正要求をしたりすると、「ありがとうございます」と返す習慣が最近横溢している。相手が喧嘩を売られたとおもう危険性を乗り越えて、問題解決的なそぶりなのである。
野口孝一氏の『銀座、祝祭と騒乱』に引用されている文学者の日記をみると、明治以来、文士というのは新聞記者みたいな側面がかなり長く続いているのだと思う。いまでもそうであろう。疑問を発見する記者が文士なのである。
裏金着服ぐらいで派閥やめるって、なんのために派閥やってたんだよ、と思うわけだが、――むろん、首相の派閥解散のアクションは問題解決のふりをして、派閥が政治抗争を隠蔽するものとして働いていることを覆い隠している。目的は清和会潰しという目的の向こう側にある。岸田首相もそれがどのような「道理」の元に許される未来なのかはわかっていないと思う。最大派閥の不全を傍らに党全体をこの際なきものにしようとする人間が自民党内部にかなりいて常に全体を融かしてめちゃくちゃにする、みたいな歴史が三木以来反復されているようにみえるけど――よくわからんが、いろいろな組織でもたいがいそういうことがある。人間個人のむずがりというのは案外本質的なものである。