★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

ほしや男、をとこほしゃ

2024-10-26 18:54:07 | 文学


さる山伏を頼みて、てうぶくすれども、その甲斐なく、我と身を燃やせしが、なほこの事つのりて、歯黒付けたる口に、から竹のやうじ遣ひて祈れども、さらにしるしもなかりき。かへつて、その身に当り、いつとなく口ばしりて、そもそもよりの偽り残らず恥をふるひて申せば、亭主浮名たちて、年月のいたづら一度にあらはれける。人たる人嗜むべきはこれぞかし。
 それより狂ひ出て、けふは五条の橋におもてをさらし、きのふは紫野に身をやつし、夢のごとくうかれて、「ほしや男、をとこほしゃ」と、小町のむかしを今にうたひける。一ふしにも、れんぼより外はなく、「情しりの腰元が、なれの果て」と、舞扇の風しんしんと、杉村のこなたは、稲荷の鳥居のほとりにて、裸身を覚えて、まことなる心ざしに替り、悪心さつて、「さてもさても我あさましく、人をのろひしむくい、立ち所をさらず」 と、 さんげして帰りぬ。 女程はかなきものはなし。これおそろしの世や。


歓喜天を訪ねる旅がしたいものだ。色道は実際に道であって、上の西鶴なんかでも、俄然もりあがるのは、「ほしや男」といいながら小町踊りをやりながら女が移動してゆく場面からであって、閨の場面ではない。

ゴジラも台風も移動する物体であるが、やはり日本に上陸するまでが盛りあがっており、日本に上陸したとたん、その移動のドラマがなくなり、ただの桎梏と化す。好色女や男が閨房から外へ繰り出してゆくのに対して、ゴジラや台風は日本にぶつかって砕け散るためにやってくる。じつに竜頭蛇尾がひどい。我々が外に出たがらないのも、海の壁の存在もあるが、動きを止めるものばっかり目撃しているせいもあるのではなかろうか。動きが鈍いのは、イメージとしての大和撫子もそうである。特撮だと、モスラがそれにあたっており、日本のモスラはじつにかわいくふくよかである。特にすこしむかしのモスラ映画では、ほそい小美人とか満島ひかるとかがモスラと対照的にでてくるのだが、これは錯覚を利用して、女性性とモスラをダブらせるためであろう。

で、――故に、この前、ゴジラとキングコングが、別の蜥蜴と猿と戦う映画をみたが、とりあえず、モスラが実にかわいくない。たんにリアルな怖ろしい顔つきの蛾ではないか。こんな怖ろしい女房の言うことを聞いているとは、アメリカの男性は実にルサンチマンの塊と化しているのであろう。そういえば「羊たちの沈黙」でも蛾は嫌われていた。我が国なら普通にモスラに似た蛾をクラリスが飼っている設定にするはずだ。そういえば「ナウシカ」がそれであるな。。。

そのくせ、日本では、実際の女性には眉毛以外に蛾を求めないのが奇妙である。

そういえば、面接試験とかで採用されている、愛嬌があるみたいな基準て、まあルッキズムといえばそうなのである。

愛嬌と言えば、「朝ドラ」の主人公なんかであろうが、なぜか食べ物に関係ある役柄が多い。もっとも、あれを見るのが食前か食後かによって印象がかなり変わるにちがいない。ケーキ職人のやつは食後のデザートでよかったかもしれないが、カップラーメンとかおにぎりはどうなんだろうな。――それはともかく、どうもモスラを食べるところまで行かないから、半端にルッキズムと食欲が結びついてしまうみたいなことが起きるのではなかろうか。

日本で何かを仕組む人というのは、どこかしら、人相が欲望と切り離された顔をしている。安倍とか石破とは逆に岸田元首相なんかがそうであろう。彼はおそらく、安倍も石破もつぶすつもりでいろいろ計画してたに違いない。いっそのこと、義経もつぶして木曽義仲の天下にしていただきたい。

欠如と進化

2024-10-26 00:59:49 | 文学


男  話がそこまで来たなら、僕も云つてしまひませう。僕は、今迄、恋愛の過程でしかないやうな、さういふ友達づきあひほど、異性間の間柄を月並にするものはないと思つてゐました。それで、どうかして、自分も男であることを忘れ、対手も女であることを忘れて、しかも、お互に、異性からでなければ受けられないやうな……親しみ、と云つては悪いかな、まあ、一種の親しみですね、さういふものを感じ合ひ、それによつて、お互の生活を新鮮にして行きたいと思つてゐたのです。
女  あたしは、異性の友達といふものに、それほど期待をかけてはゐないの。生活を新鮮にするのは、新しい恋愛だと思つてゐるんですからね。しかし、恋愛のできない男――かりにさういふ男があるとすれば――そして、さういふ男性を友達にしてゐるとすれば、それはそれでまた面白いと云ふ程度なの。しかし、あたしは、あなたを恋愛のできない男の一人だとは思つてゐませんわ。


――岸田國士「恋愛恐怖病」


恋愛したくねえ若者が多いという都市傳説があるが、本当だとしたらまあ損だという感じがしないではない。なぜなら、「恋する乙女」とか「恋する青年」はそれだけでいいことしているみたいに見てくれる人はいるからだ。近代の「恋愛幻想」がほんとに事切れる前に褒められておかんと本格的に「恋愛→心中」みたいな時代が来るとコマるのではないだろうか。

とはいえ、人間は「結婚しないマイノリティ」に向かって進化しているのかもしれない。大学を含めた学校が困惑しているのは、毎年新手の問題児?がでてくるからで、――どうみてもこれは本人の意思を越えた種の生き残り戦略か進化としか思えない。マジョリティの対策を遁れ我々は問題児へと進化しているわけだ。

学者の世界もマイノリティに向かって進化する。例えば、和辻哲郎とくるとすぐナショナリズムが~、という反応を起こす人はマジョリティだったのかも知れないが、いまは激しく馬鹿にされている(私だけかも知れないが。。)。思うに、そのマジョリティとやらは、一種の欠如を埋めようとした過剰反応によってでてきた(これも進化なのかも知れない)からである。

ヒュウマニズムの流行もパーマネント・ウェーヴの流行と同じ性質のものだぐらゐの常識を備へてゐないと、現代に処する事は難かしいのである。


小林秀雄は、「鏡花の死其他」でこのように言っている。小林自身は、花田★輝みたいに、隙間産業に注目して自らの死後、次世代のヒーローになる戦略をとらず、いまのマジョリティはマジョリティじゃないんだと言い張ることにしたのだ。これは、ある種の現実否認である。どこかで小林はなにかの法則のようなものに押されながら世の中に押し出されてしまった自覚があった。確か呂政慧氏の研究で言われていたのだが、――近代においては複雑な合唱曲よりも単旋律の曲の方が国を超える可能性があるように思えるが、逆で、合唱曲を作れない国では歌詞の翻案のニーズの方が大きく作用してしまうことがありうるそうだ。一歩先に音楽の近代を一部成し遂げた日本の合唱曲が音楽的に複雑であったにもかかわらず、歌詞を翻案することによってその作曲能力を持たなかった時代の中国に越境してしまった、というような研究であった。思うに、日本におけるクラシック音楽もその作成能力のない日本に越境するさいに、――小林秀雄とか吉田秀和とかが、音楽を凌駕したその翻訳のニーズの権化みたいに出てきたかも知れないのだ。

しかし、我々の社会は、欠如を欠如としておもわず、おなじ平面に「合格」させるみたいな平等戦略をとるようになった。本来的にロストしているものなどない、というわけだ。そういえば、ずっと議員をやっているような人に対する落選運動を嫌う人(――かなりの受験エリートであった)にむかし聞いたことあるんだが、受験に失敗しろみたいにきこえていやだから、逆に応援してしまうと。政権交代のために、受験生を全員落とせば良いのではないだろうか。