さる山伏を頼みて、てうぶくすれども、その甲斐なく、我と身を燃やせしが、なほこの事つのりて、歯黒付けたる口に、から竹のやうじ遣ひて祈れども、さらにしるしもなかりき。かへつて、その身に当り、いつとなく口ばしりて、そもそもよりの偽り残らず恥をふるひて申せば、亭主浮名たちて、年月のいたづら一度にあらはれける。人たる人嗜むべきはこれぞかし。
それより狂ひ出て、けふは五条の橋におもてをさらし、きのふは紫野に身をやつし、夢のごとくうかれて、「ほしや男、をとこほしゃ」と、小町のむかしを今にうたひける。一ふしにも、れんぼより外はなく、「情しりの腰元が、なれの果て」と、舞扇の風しんしんと、杉村のこなたは、稲荷の鳥居のほとりにて、裸身を覚えて、まことなる心ざしに替り、悪心さつて、「さてもさても我あさましく、人をのろひしむくい、立ち所をさらず」 と、 さんげして帰りぬ。 女程はかなきものはなし。これおそろしの世や。
歓喜天を訪ねる旅がしたいものだ。色道は実際に道であって、上の西鶴なんかでも、俄然もりあがるのは、「ほしや男」といいながら小町踊りをやりながら女が移動してゆく場面からであって、閨の場面ではない。
ゴジラも台風も移動する物体であるが、やはり日本に上陸するまでが盛りあがっており、日本に上陸したとたん、その移動のドラマがなくなり、ただの桎梏と化す。好色女や男が閨房から外へ繰り出してゆくのに対して、ゴジラや台風は日本にぶつかって砕け散るためにやってくる。じつに竜頭蛇尾がひどい。我々が外に出たがらないのも、海の壁の存在もあるが、動きを止めるものばっかり目撃しているせいもあるのではなかろうか。動きが鈍いのは、イメージとしての大和撫子もそうである。特撮だと、モスラがそれにあたっており、日本のモスラはじつにかわいくふくよかである。特にすこしむかしのモスラ映画では、ほそい小美人とか満島ひかるとかがモスラと対照的にでてくるのだが、これは錯覚を利用して、女性性とモスラをダブらせるためであろう。
で、――故に、この前、ゴジラとキングコングが、別の蜥蜴と猿と戦う映画をみたが、とりあえず、モスラが実にかわいくない。たんにリアルな怖ろしい顔つきの蛾ではないか。こんな怖ろしい女房の言うことを聞いているとは、アメリカの男性は実にルサンチマンの塊と化しているのであろう。そういえば「羊たちの沈黙」でも蛾は嫌われていた。我が国なら普通にモスラに似た蛾をクラリスが飼っている設定にするはずだ。そういえば「ナウシカ」がそれであるな。。。
そのくせ、日本では、実際の女性には眉毛以外に蛾を求めないのが奇妙である。
そういえば、面接試験とかで採用されている、愛嬌があるみたいな基準て、まあルッキズムといえばそうなのである。
愛嬌と言えば、「朝ドラ」の主人公なんかであろうが、なぜか食べ物に関係ある役柄が多い。もっとも、あれを見るのが食前か食後かによって印象がかなり変わるにちがいない。ケーキ職人のやつは食後のデザートでよかったかもしれないが、カップラーメンとかおにぎりはどうなんだろうな。――それはともかく、どうもモスラを食べるところまで行かないから、半端にルッキズムと食欲が結びついてしまうみたいなことが起きるのではなかろうか。
日本で何かを仕組む人というのは、どこかしら、人相が欲望と切り離された顔をしている。安倍とか石破とは逆に岸田元首相なんかがそうであろう。彼はおそらく、安倍も石破もつぶすつもりでいろいろ計画してたに違いない。いっそのこと、義経もつぶして木曽義仲の天下にしていただきたい。