★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

平凡なレベルの維持

2024-10-30 23:51:03 | 思想


だが私はアカデミー至上主義に対しては判然と反対せざるを得ない。今日の大学は文化的技能の技術的な素養的な訓練をしか与えない。ばかりでなくそれ以上に出ることをアカデミシャンは色々の言いがかりでみずから禁止しているのだ。思想の文化技術的獲得に就いては、今日の大学の機能はほとんど全く無力であることを私は忘れることができない。生きた史的認識の代りに思想的定位のないただのフィロロギー、時局認識の代りに思想目標のないただのカテゴリー分析、之が今日の大学アカデミー機能の精々の仕事である。今やジャーナリストや文士には多少の思想はあっても思想を整理し進展させる文化的技術がない。処が又大学アカデミーは、文化的技術は有っていても使い途が明らかになっていないから、盲目的なテクニシャンしか産まない。研究室の若い学生達がそのいい例だ。――だが之を裏から言えば、半分アカデミシャンで半分ジャーナリストである私の書く大学論は、実は痛し痒しの態なのである。


――戸坂潤「私の見た大学」


大学を貶すのはいつもの文士たちの仕草でありそれ自体に大して意味はない。こういう批判となると、とつぜん戸坂潤みたいなひとでもファクトを追究するつもりがない。盲目的なテクニシャンなんか100人のうち0.5人ぐらいではないか。わたくしは、平凡な大勢を教えてきた教師たちこそ戸坂よりも優れていると思う。

思うに、やる気のない人間に対して慣れすぎたせいだと思うんだが、明らかに不純な出世主義者や俺様タイプがやる気のある頑張っている人間に見えてしまう現象が学生の中に広範にある気がする。空気を読める点では天才的にみえるというのがありそうだ。それは、機を見るのに敏、とか右顧左眄とか場合によっては言うのだ。――例えば、こういうことを言って聞かす教育はマルクス主義者であろうと保守であろうとしなければならないのである。

ある意味、家をでて大学に集まってきているときが説得のチャンスである。ふつういろんないみで大学に行くのは出家であるが、今話題のzen禅大学は在家なのである。これでは、説諭ができんではないか。

大学四年間において、その緩い管理下のなかで長い時間をかけて平凡な、あるいはろくでもない人間性が露呈し、そんなんじゃだめだよと説教をくらい、信用されたりされなかったりする経験が社会を辛うじて保つための責任がある立場の職業人になるために必要なのである。ちょっと問題がおこりやすくなってきたとはいえ、学校の先生とか病院で一定の倫理がたもたれているのはそのおかげだ。卓越した人材もでてもいいけど、平凡なレベルを維持するためにどれだけ人が教育にあたってきたとおもってる。改革よりもレベルを保つことを優先すべきなのである。あたりまえではないか。改革は革命でない限り、一部の破壊であり、ある部分への利益誘導である。

倫理にかんする教育は長い時間がかかる。教師以上に倫理的な感覚が必要かもしれない職業でも、まったく大学の倫理的効果を必要としていないものがあるが非常にまずくて、犯罪まがいの金儲けが入り込む余地がある。市場にまかせよという考え方もあるだろうが、現状、それは無理だと思う。業界が滅茶苦茶になりかかっているのを一応消極的にも監視出来るのは官庁があるからで、業界自体は官庁にいろいろと責任を被せているが、実際は庇護下にあって大きな事件が起こらないようになっている側面が大きいのだ。

保守ではない。革命でも保守でも、社会を保つ地味な大勢が教育に当たらなければならない。そのこととマイノリティ主義が両輪でまわる必要がある。マイノリティ主義は一部の破壊、平凡な大勢がむかしからいつも苦しんできたことをつい無視してしまう。