昔の人間は常住死と隣り合わせて生きてきたんだ。死と隣合わせていたからこそ、彼らは生を知っていた。生の尊さ、生の烈しさをつまり生そのものの意義を知っていたのだ。だからバカな生き方をあまりしなかった
――梅崎春生「つむじ風」
隣り合わせなのは死だけではない。動物もそうであった。
三島由紀夫がむかし、早稲田の学生に向かって、人間弱者をかわいそうとおもうのはある程度本能だが現代人は人間を超えて犬とか猫をかわいがる方向に行ってしまったみたいなことを言っていた。しかしペットは家畜との生活と一緒で所謂人間的なものへの第一段階としての同化であるきがする。わたくしは、信州教育のアレで、教室に動物がいた時期がある気がするが、あれは情操教育というか人間化教育なのである。
七〇年代、世界的に動物なしの人間化が試みられたが、うまくいかない。「ダーティハリー2」をはじめてみたが、キャラハンという男、野性味と合理性の合体で実に不安定なかんじに仕上がっている。自分の性質はすぐさま周囲もそうだとわかる。そうすると、頼るのは何か、法律か?正義か?という自問自答がはじまる。山羊に聞いてみれば、どちらでもないことはあきらかだ。
最近首相になった石破茂氏はどうであろう?動物的であろうか?人間的であろうか?氏のしゃべり方とかゆっくり迫り来るlogicにたいして「ネットリ」みたいな擬態語を用いる人もいるようだが、案外、それは動物的でも人間的でもなく、フルトヴェングラーのブルックナー、例えば第七番の第二楽章のネットリした感じに近いかもしれない。