
戦後アメリカから輸入した個人主義は、都合の良い個人主義であった。 個人主義とは個人的主体各員が共同体の政治的決定に参加することで初めて成り立つ。個人として意思を表明した結果、それが全体になるという構図が本来の姿だ。しかし日本はアメリカから個人主義を誤読してしまった。個人主義とは個人が個人として生きるのであるから社会に対して興味を持たなくて良いという意味で個人主義を捉えてしまったのである。現実社会という偽善(上部構造)に対して、個人的な共同体という露悪(下部構造)が存在しているのが正しい個人主義なのだが 「社会は、存在しない」という屁理屈によって現実社会を否定する建前の使えない露悪的病理と、個人的共同体を全く定義できない正論馬鹿とが二極化してしまった。
――ぱくもと『超陽キャ哲学』
最近よんでみた。だいたい切り取られている部分と暴言的に圧縮している部分とがリズムをつくっているのが若い人々の論文であるが、こういう本でもそうであった。二極化の部分は、どちらであるか迷うが、論理の節回しとして必要だったのである。
チェンソーマンはアニメよりマンガと学生が言っていたが、よんでみるとほんとにそうであった。動的な部分を想像させる部分とさせない部分とがほどよく計算された紙芝居的なものであった。
そういえば、この前、ショスタコービチの第九番のスコアをみていたら、わたくしが把握してなかった音符を発見したが、この作曲家の曲にもたびたび節回しが曲から飛び出ている。
都で神社の木を切るな、いやもう切ってしまった、みたいなのが話題になっている。そういえば、うちの近くの(南の方の)神社にはつぎのような挿話がある。第二次大戦末期、陛下の命令で飛行場を造るんで、そこのご神木邪魔だからちょん切るとか政府(軍)が言ってきた。で、そもそもその飛行場予定地にあったいくつかの神社を移動したあげく、そのご神木も頭の部分切っちゃった。で、当時、住民がどう反応したのかはわからないが、その移動させられた神社が、飛行場の移転で、戦後かなりたって復活したとき境内の碑には、あのときの怨みは忘れない的なことが怒髪天をつく勢いで書いてある。――というわけで、最後怨みを書いたもんが勝ちなのである、というのはある。ほどよく、記憶が圧縮され、切り取られた結果である。
そういえば、神社の森に埋もれかけていた忠魂碑を、神木などを切り倒して存在を明るみに出したみたいな、どっちの「柱」をとるんだみたいな話も聞いたことがある。